(平成14年05月22日 作成)
(平成275年07月09日 更新)
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ま え が き
名古屋から徳島へ (3/06)
遍路初日(14/3/07) 2日目 (3/08) 3日目 (3/09) 4日目 (3/10) 5日目 (3/11) 6日目 (3/12) 7日目 (3/13) 8日目 (3/14) 9日目 (3/15) 10日目 (3/16) 11日目 (3/17) 12日目 (3/18) 13日目 (3/19) 14日目 (3/20) 15日目 (3/21) 16日目 (3/22) 17日目 (3/23) 18日目 (3/24)
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@ ま え が き
2 年前の 平成 12 年 に体験した 「初めての歩き遍路」 は、なんとなく 安易な思いつきで、綿密な計画も立てないまま四国へ出かけてしまい、幾分 後悔もしながら歩き続けて どうにか 「結願」 までこぎつけることができました。
ただ、先人たちからみれば 「お遍路をしてきた 」 なんて おこがましく云える内容ではない事は確かだが、八十八ヶ所を順を追い、四国・四洲、1,200km 余の遍路道を初めて隈なく歩いて踏破できたことは、今も自分の過去に一つの大きな 感動の泉 として残っております。
[ 霊山寺 ] を出て僅か3日しか歩いていない 平成12年3月12日、 18番 [ 恩山寺 ] から 19番 [ 立江寺 ] に向かって痛む足を騙しながら少しでも前へと歩いて、やっと [ お京塚 ] の手前に来たとき、遂に往くも 帰るも一歩さえ踏み出せなくなった あの時のことを今も鮮明に憶えております。
あれほどの苦痛は、肉体的にも 精神的にも自分には過去に経験したことのない体験でした。
恥も外聞も捨て、お遍路を止めて家に帰るか、ここに留まって歩けるようになるまで待つかと苦悶したあの時、
「足が痛いくらいで死ぬことはないんだ。 俺は航空自衛隊や三菱重工で戦闘機のテストパイロットとして最近まで飛び続け、世の中で最も危険と思われている仕事に従事しながらも 今日まで無事に生きてこられたのだ。 今でも [ 死 ] が 何よりも怖ろしくて いやだ。 その [ 死 ] と云うことがないんなら、ここまで来たんだから残された道は 少しずつでも歩き続ける しかないじゃないか。」
自分に対するこの結論が出るまで、道端 に座って過ごした時間は随分長かったことを今も思い出します。
四国を歩いた人は 「 是非もう一度 来たい。 また四国を歩いてみたい。」 と云ういわゆる、「しこく病」、「 お四国さん 」 になってしまう人が多いと聞いていました。 しかし、自分には決してそんな事は起りえないと信じ、またその通りに本日に至っております。
ところが、月日の経過と共に毎日のようにウグイスの鳴き声を聴きながら歩いた、いや歩き通せた充実感、満足感、歩かせて頂いた感謝の気持ちなどが何時しか自分をもう一度四国へと誘いだし、あり得ないと思っていた四国の旅に、今回 再び出発する事になってしまったのです。 自分でもまったく不思議な気持です。
再び、四国に来て徳島 から歩き始めてみると、たくさんの方々との素晴らしい出会いから始まり、最後の日まで想い出いっぱいの出会いを楽ませて頂きながら歩くことができました。
そして 2年前とはまた違った充実感、満足感を得て 「 結願 」 することができました。
2年前の「初めてのお遍路」で、[四国のみち] を歩いていると地元の方々は勿論、各地方から来られた日本人、多くの外国の人などそれはそれは多くの方とのいろんな出会いがあることを知りました。
今回、平成14年3月7日から4月12日まで、約1200km余のへんろ道を、36日間、177万歩で巡った 通し歩きお遍路のあり様を
『 出会いのお遍路 ( 平成14年春 ) 』
と 題して 多くの方々との出会いを中心に紹介させて頂きます。 独断で偏見のある部分はよろしく見過ごしてください。
* 距離計算などは [へんろみち保存協力会] の資料を参考にしております
A 遍 路 日 誌
[ 四国霊場の図 ]
☆ 名古屋発徳島へ (H14,03,06 水 昼間快晴でも徳島の夜は寒く時雨れる) 『 お別れの サッカー 』
* 行程 : 自宅 ⇒ JR春日井駅 ⇒ JR名古屋駅バスターミナル (23:30) ⇒ JR徳島駅
* 宿泊 : 高速バス車中泊
娘の祐子と孫の一皓君(小学校1年)、陸人君(幼稚園年中組)を招いていつものように家内の手料理を囲んで家族5人で夕食。
孫たち2人の旺盛な食欲に今夜もみんなが驚かされる。 娘婿の忠泰君は社用で横浜に出張していて残念ながら不在。
こんな雰囲気で賑やかに食事ができるのもしばらくの間 お預けになる。
孫たちも私が居ないと、ババは体力的にも対等に遊んでくれないので 元気盛りの彼らにとっては面白味がすくないので来たがらなくなるのではないだろうか。
だから彼らにも、しばらくの間 退屈なさみしい日が続くことになるだろう。
ババの得意な美味しい食事をみんなですますといつもの様に 一皓君と陸人君を相手に、一方は居間の本箱を、一方はリビングのドアを ゴールに見立ててビーチボールでサッカー遊びをする。
時たま天井のライトやテレビの上の時計などに当たって大きな音を立てて落っことしたりもする。
ヂヂとする [ 勝負 ] (孫達がウルトラマンになり、 [爺] が怪獣になってのミニプロレスごっこ ) と並んでヂヂの家に来ての孫達の一番興味のある遊びだ。
自分の家では階下や隣への騒音で やらせてもらえない。 時々2人が
『 ヂヂンチニ アソビニ イッテモ イイ ? 』
と電話してくる最大の理由でもあり、彼らのストレス解消手段なのだ。
しかし、反面 我が家には 騒音が移動して来ることになり、時には激しい兄弟喧嘩に発展することもあるので、これだけはババに歓迎されない。
ババやママの見ている前で上手になったことを見せびらかすように、今夜の2人はいつもより元気に いつまでもビーチボールを蹴る。
こっちもつい本気になってしまい汗ばむまでやってしまう。
そしてもう一つはヂヂが右腕を鉄棒代わりにして彼らに逆上がりをさせるのだ。
右肘を腰に付けて下腕を水平にして力をいれて立ち鉄棒代わりにして逆上がりをさせる。
彼らには鉄棒より太くて握りにくいのでやりにくくてなかなか回りきれない。
お尻を押してやって回転を加勢してやるとやっと回りきれる。
こうして幼稚園や遊園地の鉄棒で覚えた逆上がりの要領でヂヂの右腕でも逆上がりの形ができるのだ。
うまく回りきれるとヂヂが一番うれしいがるのを孫達が知って手助けしてくれるのだ。
最近は成長して大きくなってきた一皓君にやらせるのはヂヂの体力では不可能になってきたので専ら弟の陸人君にやらせ以前の一皓君と同じように少し後押ししてやるとうまく回りきり、みんなと楽しい時間を過ごす。
そしてヂヂの趣味の筋トレにもこの運動は役立ち満足感を貰えるのだ。
明日から暫く 一緒に遊べないので、出発ぎりぎりまで 2人と楽しいひとときを過ごす。
ババに急かされ、四国に持っていく荷物に忘れ物がないか最後の点検をして確認する。
それでも何か忘れ物がありそうな気がして不安は残る。
しかし、前回整理しておいたメモをチェックリストにして 確認できるので安心感は大きい。
2月11日、高蔵寺駅で購入した 23時30分、 「 名古屋駅バスターミナル 」 出発の深夜特急バス 「 オリーブ松山号 」 の切符 ( 10番A席 ) をもう一度確認する。
出発日を今夜に定めたのは前回と同様 3月初旬で日柄を考慮し 、[ 大安 ・ 啓蟄 ] の今日に決めた。
旅立ちに最適の [ 大安 ] と 冬ごもりの虫声を啓くと云う [ 啓蟄 ] とが重なった今日は、66歳の [爺] がお遍路に出発する最適の日柄といえる。
前回はわざわざ名古屋駅のバスターミナルまで出向いて切符を購入したが、最寄りのJR駅でも購入できる事を知り、今回は近くの高蔵寺駅で購入した。
後で得た情報ではすぐ近くの 「 ピアーレ 」 内にある 「 近ツリ 」 でも購入できるそうだ。
22時20分、娘の祐子が 運転する車に一皓君と同乗し、JR春日井駅まで送って貰う。
荷物は リュック と ウエストバッグ、それに100円ショップで買った 手提げバッグ の3個に纏めた。
リュックは背負い、ウエストバッグは腰に着け、手に持つものは手提げバッグだけとし、置き忘れをしないための前回の改善事項だ。
弟の 陸人君は 通園する幼稚園が ババの家から至近距離なので、今夜はババと2人で寝て、明朝ここから通園することにしたのだ。 本人は
『 オニイチャンハ ガッコウガ アルカラ トマレナイノニ (*小学校は自宅からでないと遠くなるため) ボクハ ヨウチエンダカラ トマレル。 ヤッター。』
と大喜び。 パジャマ姿でエレベーターの前までババと一緒に出てきて
『 ヂヂ バイバイ。 』
と見送ってくれる。
春日井駅前で車を降り、振り返ると一皓君が助手席の窓を開けて顔を出し
『 ヂヂ、イッテラッシャイ。 ハヤク カエッテ キテネー。 』
と両手を振りながら大声で送ってくれる。
23時10分 「バスターミナル」に到着。 前回はここで 入れ歯を家に忘れて来たことに気づき 大慌てするも為すすべもなく出発したことを思い出す。
バスは定刻にターミナルを出発、一宮バス停で 5、6名のお客を拾ってほぼ満席となり、間もなく照明も暗くされ、一路四国徳島に向かって走る。
隣席の人に迷惑なことだが、風邪気味のため時々腹の底から吹き出すように出てくる咳を、音をさせないように発散するのに苦労するがそのうちに寝入る。
☆ 遍 路 初 日 (H14,03,07 木 晴れて暑い1日) 『 歩きお遍路は 徳島駅から 』
* 行程 : 徳島駅 ⇒ (15.0km) ⇒ 1番 霊山寺 (りょうぜんじ) ⇒ (1.2km) ⇒ 2番 極楽寺 (ごくらくじ) ⇒ (2.5km) ⇒ 3番 金泉寺 (こんせんじ) ⇒ (4.3km) ⇒ 5番 地蔵寺 (じぞうじ) ⇒ (1.8km) ⇒ 4番 大日寺 (だいにちじ) ⇒ (7.3km) ⇒ 6番 安楽寺 (あんらくじ) ⇒ (1.0km) ⇒ 7番 十楽寺 (じゅうらくじ) ⇒ (4.2km) ⇒ 8番 熊谷寺 (くまたにじ) ⇒ (2.4km) ⇒ 9番 宝輪寺 (ほうりんじ) ⇒ (2.6km) ⇒「民宿 坂本屋」
* 距離 : 42.3km = (Σ42.3km)
* 歩数 : 57,900歩
* 宿泊 : 「 民宿坂本屋 」 (徳島県阿波郡市場町)
深夜に名古屋駅前のバスターミナルを出発したJRの特急深夜バスは 5時少し前に [ 徳島駅 ] に到着。 駅前は照明も暗く 意外と寒い。 寝不足で身体も 少しけだるい。
駅待合室 に行き、歩き支度に着替える。
前回は板東駅へ向かう1番列車が出るまでの約1時間の待ち時間が寒くて耐え難かったので、今回は 徳島駅 から 1番札所の [ 霊山寺 ] までの約15kmも歩き、お遍路の行程の中に組み入れて遍路の計画を立ててきた。
少し肌寒い程度に身支度を整えて 05:15 徳島駅 を右廻りに出て出発。
外はまだ暗く、空には所々に星も見え、後方の南南東の空には白く大きな右弦の月が寒そうに光っている。
しばらく歩いて行くと 吉野川 にでる。 まだ暗くてきれいな川の流れをじかに見ることは出来ない。
[ 吉野川橋 ] は車専用の橋の左側に併設された人と自転車の専用の橋を渡る。
巾が狭くて少しゆれて囲いも無いので左から吹き上げてくる冷たい氷雨混じりのつよい風に左頬が打たれて痛い。
歩いて汗をかいた躰もしんまで冷えてしまう。 橋は約 1km の長さがある。
歩いていくと左側の校舎らしい建物の窓に
[ 祝 甲子園出場 ]
の垂れ幕が張ってある。 朝の散歩中の人 に
『 すいません。 あの学校は何という学校ですか? 』
と尋ねると
『 鳴門工業です。 春の選抜に出場するんです。』
とのこと。 あっ そうか、間もなく春の選抜高校野球 が始まるんだ。
「 おめでとう。 力いっぱい頑張れよ。 俺も今日から頑張からな。 苦しくても負けないぞ。 」
心の中で声援をおくりながら通り過ぎる。 いよいよ 1200km 余りの通し歩きお遍路 のスタートを切ったのだ。
* 鳴門工業高校は順調に勝ち進み、遍路の途中 4/5 見事に準優勝に輝いた。 おめでとう。 これも素晴らしい出会いのプレゼントだ。 ありがとう。
7 時過ぎ、進行方向正面の西の空に半円のきれいな虹が出ているのに気づく。
『 霊山寺 はこの道を行けばいいのですか? 』
すぐ側を風に向かって腰を浮かして自転車を漕いで通り過ぎようとする中学生らしい 男の子 に尋ねると
『 この道を行くと右に ローソン の看板が見えてきます。 霊山寺 は そのすぐ先です。』
『 有り難う。 さっききれいな虹が出ていたね。』
『 僕も 見ました。』
軽快に応えてくれる。 間もなくさしかかった判りにくい斜め四叉路では彼はわざわざ自転車を降りて待っていてくれて、近くに寄ってきて渡り方と進行方向を教えてくれる。
彼には多分私が手を差し伸べたい老人に写ったのかもしれない。
それにしても彼のしてくれた行為は冷めきった俺の体に充分なぬくもりを呉れた。 だって冷たい頬に熱い涙が流れたきたもの。
少年が教えて呉れた通り 間もなく右前方に空色の ローソン の看板が見えてきて、その向こうには必ず 1番札所の [ 霊山寺 ] がある事が予想され、何の不安もなく安心した気持ちで歩いて行けた。
この少年が今回の旅の最初の出会いとなった。
名前も何処の中学生かも知らないまま別れたが、これからの長いお遍路の初日に素晴らしい出会いを呉れた君に今でも感謝しています。
親切に気持ちのよい応対をしてくれて本当に有り難う。 有為な人間に成長される事を心から祈ります。
冷たい霧雨のなか、08:35 冷えきった身体で 霊山寺に到着。
『 いやぁー 霊山寺さん 久しぶりだねぇー。』
懐かし気持がいっぱいで 寺の山門をくぐる。
先ず、本堂内の売店に入って納経帳、金剛杖、輪袈裟を選んで差しだし、八千円近くを支払う。
備え付けの 「歩き遍路者名簿 」 のノート 今日の日時 と 氏名 ・住所 を記入する。 本日の欄には既に5名の記帳がある。
最近 歩き遍路をする人が増えたと聞いていたが、これをみてもそんな様子がうかがえる。
外は明るさを増してきて、天気も回復してきたようなのでもっと薄着の歩き支度に着替える。
上半身は速乾性の肌着 と 白衣 ( ハクエ ) に白手袋の軽装にする。 最初は少し寒さを感じるが直ぐに温まり何時しか汗ばんでくる。
着替えていると高山から来たと云われる男性から出発前に山門の前でカメラのシャッターを押して欲しいと頼まれる。
お互いに納め札を差しだして自己紹介する。 高山から来られた 脇本さん と云う方で70歳とのこと。
出発準備を終えて、本堂、大師堂に参拝する。
今回の歩きお遍路は
@ 亡父竹次と亡母マツの供養。
A 長男夫婦の長子安産誕生の祈願。
B 家族の健康祈願。
C 高知、松山では同期生故人2人の供養
を祈願する事を主眼にしており、従って参拝手順として自分なりに、
* 『 南無大師返照金剛 』 ( 弘法大師御宝号 ) を 3回
* 『閔堅院釋晃照不退居士』 ( 亡父の戒名 ) を 3回
* 『妙相院釋尼芳照大姉』 ( 亡母の戒名 ) を 3回
* 「長男夫婦長子の無事安産」 の祈願
* 「家族の健康」 の祈願
を各札所の本堂、大師堂、その他にお参りして供養・祈願する。
また、早く亡くなった同期の 橋本君 の供養を高知市内で、 岡田君 の供養を松山市内で自分なりにして行きたいと決めて今回は四国に来たのだ。
何時もながら [ 1番札所 ] は多くのお遍路姿の人で混雑している。
参拝後境内を一通り見学して回り、シャッターの約束をした 脇本氏 の姿を見つけ、山門の処へ誘う。 わざわざ待っていて呉れたのかと恐縮される。
山門右側の [ 霊山寺 ] の寺名の入った柱をバックにしてシャッターを押して記念の写真を撮る。
出発前の姿を写真に収めることができ、よい記念になったと喜んで貰え、うれしい。
札所で最初に会った脇本氏が隣県の高山からの人だったのに、残念ながらその後再会する機会がなかった.。 無事に結願された事を祈る。
[ 霊山寺 ] を出発する頃には空はすっかり晴れ上がって快晴になる。
途中順調に打ち進み、 8番 [ 熊谷寺 ] の手前ではへんろ道近くにそびえ立つ徳島出身の 「 元首相三木武夫 」 の立像を左に見ながら歩いていく。
* 打つ とは札所に参拝する事を云い、その昔木製の納め札をお寺に打ち付けていた名残として
現在もこの言葉が順打ち、逆打ち、区切り打ちなどの表現で使われる。
前回は11番の [ 藤井寺 ] を打って初日を終わったが、今回は徳島駅から歩いて、 [ 霊山寺 ] の出発が遅くなったので 10番 [ 切幡寺 ] の納経も済ますことが難しくなってきた。
* 納経 は各札所とも朝7時から始まり、午後5時に締め切られ、それを過ぎると入口を閉めて一切受けつけて貰えない。
是が非でも 9番 [ 法輪寺 ] の納経は終わって予約してある [ 切幡寺 ] 前の「 民宿坂本屋 」 に投宿しなければならない。
法輪寺へ急いで歩いている途中、我慢できなくなり、林の中の廃材置き場の陰で緊急爆撃をさせてもらう。
4時半に [ 法輪寺 ] の納経を無事に終えることができたが、どんなに急いでも [ 切幡寺 ] は今日中に打てない事がはっきりしたのでこれからはゆっくり宿に向かって歩く事にした。
夕食の食卓についてみると、中年の夫婦1組と、3人の女性組み、男性1人と自分の 都合7人が宿泊しており、端に座ってる夫婦は自家用車に乗ってのお遍路で、他の5人はみんな歩きお遍路で、自分を除いて4人は2日目らしい。
足の手入れを済まし、計画を見直して、徳島市内のビジネスホテルに明後日の宿を予約して床に就く。
「1番札所 霊山寺」:
出発する頃には西の空の虹も
消えて 晴れ間が広がる
撮影日時(2002/03/07 08:28)「2番札所 極楽寺」:
撮影日時(2002/03/07 09:12)「3番札所 金泉寺」:
金泉寺由来の大師手掘りの井戸が今も残る
覗き込んで井戸に顔が写ればその後3年は
死なないそうだ ぼんやりと見えたみたい
撮影日時(2002/03/07 10:07)
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「大 師 庵」:
金泉寺から地蔵寺の間の
遍路道沿いにある庵
撮影日時(2002/03/07 10:38)「5番札所 地蔵寺」:
「水琴窟」
耳を澄まして聞くと涼しい音が聞こえる
撮影日時(2002/03/07 11:35)「5番札所 地蔵寺」:
奥の院の
「五百羅漢」
撮影日時(2002/03/07 11:46)
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☆ 2日目 (H14,03,08 金 快晴で風強く暑い) 『 真崎さんとの 再会 』
* 行程 : 「民宿坂本屋」⇒ (0.5km) ⇒ 10番 切幡寺 (きりはたじ) (H165) ⇒ (12.3km) ⇒ 11番 藤井寺 (ふじいでら) (H140) ⇒ (12.9km) ⇒ 12番 焼山寺 (しょうざんじ) (H700) ⇒ (10.9km) ⇒「植村旅館」
* 距離 : 36.6km = (Σ 78.9km)
* 歩数 : 51,600歩
* 宿泊 : 「植村旅館」 (徳島県名西郡神山町)
同宿の7人と揃って朝食を済ませ、6時40分、宿の前でみんなと別れ 独り昨日打ち残した [ 切幡寺 ] へ向かう。
境内に導かれる333段の石段を一気に上って本堂へ。 大師堂を参拝して直ちに納経を済まし [ 藤井寺 ] に向かう。
県道を横切って真っ直ぐに進み、 [ 中司茂兵衛 ] の開いた川の土手に上がって [ 沈み橋 ] を経由するへんろ道を歩く。
前回は間違って県道の交差点を左折し 3km以上長い車道の遍路道を進んでしまった。
暫く行った処で道が左の林に入って行く分かれ道があったが、遍路案内をしっかり確認しないまま自分勝手に判断して直進し、しばらく歩いた処で畑仕事をしていた老人に近寄って
『 藤井寺 へのへんろ道はこの道を行けばいいですよね。』
と、つい念押しをする様な聞き方をしてしまう。
『 あんたさん こっちからでも 行けんことはないけど、 藤井寺 は逆方向だよ。 ( 右を指しながら ) 向こうの辻を こっちへ曲がらんと いかんで。』
さっきの三叉路で左折しなければならなかったことを教えてくれる。
それを自分勝手に判断し直進して、ここまで来てしまったのだ。 私の歩いて来た方向が逆だと云われてもなかなか信じたくない。
誤った判断が私の中に定着しており、雲の中で戦闘機を操縦していてバーティゴ ( * 空間識失調) に入ってしまったときの感覚にも似ている。
説明を聞いただけではそう簡単には修正できない。
三叉路 を通過する時、道の左側にあった遍路石まで足を運んでしっかり確認しておけばこんな無駄な歩きをしなくて済んだのだ。
でもまだ、不安のまま歩き続けずに、この老人に教えを請うた事で事態が更なる悪化だけは防げたのだ。
バーティゴに入った時はアテチュード・インディケーター ( * 姿勢指示器) を兎に角信頼して、自分の感覚を修正することが戦闘機操縦の基本と学んできた。
そしてこれによって何度か救われた経験もある。
これも 「人生 即 遍路 」 の教訓だ。 基本をしっかりやって判らないときは恥じず、恐れず他人に聞くことが重要なのだ。
教えて貰ったように後戻りして右へ曲がり、2つ目の沈み橋 「川島橋 」 を渡って細いへんろ道を歩いて行くと、 [ 藤井寺 ] と 「 ふじや旅館 」 の間を山側から出てきた。
[ 藤井寺 ] の参拝を済ませ、本堂の左から [ 焼山寺 ] への薄暗い山道へんろ道へと入っていく。
びっしょりと汗をかいて約300m上った [ 長戸庵 ] に着くと昨夜隣の席で食事をしていた女性が汗の着替えをしながら休憩してるのに出会う。
再会の挨拶をし、初めての自己紹介をし合う。
習志野市 から来られた 真崎さん と云い、カラーの顔写真が入った名刺を頂く。
日常生活の中にパソコンを活用しておられる様で、名刺もパソコンで 自作したと云われる。
女性にしては随分高いレベルのようだが、ホームページはまだ開設されていないようだ。
[ 長戸庵 ] の参拝を済ませ、昼過ぎに [ 柳水庵 ] に到着すると、さっきの真崎さんが庭先の石に腰を下ろして休んでいる。
今夜の宿はこの [ 柳水庵 ] に予約してあるが、まだ早いのでここで待っているのだと云う。
自分はまだ残り 15km も歩かなければならないので、
『 先を急ぎますので失礼します。』
と云ってお互いの健闘を約束して別れる。
[ 焼山寺 ] ( H700 ) の近辺には梅の木が多く既に盛りを過ぎて色あせた白い花が 残り香を臭わせている。
今日も早朝から歩いて行く先々でウグイスが鳴いて疲れを和らげてくれる。
[ 一本杉庵 ] を通り、薄暗い深山の中を汗を流して辿り着いた [ 焼山寺 ] の感慨は、前回にも増して特別な何かを感じさせてくれる。
[ 焼山寺 ] への道は 「 へんろころがし 」 と呼ばれて、四国八十八ヶ所歩きお遍路のなかで最初に遭遇する極めつけの難所であり、標高も 66番 [ 雲辺寺 ] (H910) 、 60番 [ 横峰寺 ] (H740) に次いで高く、遍路道 も 嶮しい山道 の連続です。
梅の林を通り抜け [ 杖杉庵 ] に出ると覆い被さったいた樹木も無くなり、明るい世界が広がる。
そして、鍋岩から阿野の 「 植村旅館 」 への途中、「 玉ヶ峠 」 ( H460 ) を越すコースは 3通り あるが、そのうちの山越えの短いコースを選んで進んだらこれが大失敗。
小規模な [ 焼山寺 ] 越え のような登り下りの険しい細い山道で、雑木が繁茂して歩き難く、痛む足と疲れた身体には過酷な試練となった。
疲れ果て、遅れに遅れて 「 植村旅館 」 に到着した時は同宿者の2人は夕食を食べ終わった処で、奥さんにお願いして先に風呂に入らせて貰う。
疲れた身体を湯船に浸しながら見ると足の裏には大きなマメができており、両足の親指の爪も盛り上がり、全体にまるく腫れあがって、明日からの歩きが心配になってくる。
今日は、雲一つない快晴で 風も 日射しも強く、歩き疲れのする一日だった。
「中司茂兵衛の碑」:
沈み橋手前の川土手に建つ
撮影日時(2002/03/08 08:04)「11番札所 藤井寺」:
本堂天井に描かれた大迫力の雲龍の顔
地元出身の林雲渓作で30畳の大きさで迫力がある
撮影日時(2002/03/08 09:45)「長 戸 庵」:
藤井寺から300m登ったさみしい場所に
ぽつんと建つ庵
撮影日時(2002/03/08 11:18)
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「柳 水 庵」:
藤井寺と焼山寺の中間にあり
3〜4名まどの歩きへんろ客が泊めて貰える
撮影日時(2002/03/08 12:43)「大 師 像」:
一本杉庵では疲れて登って来た
お遍路さんを大師像がやさしく
出迎えて呉れます
撮影日時(2002/03/08 13:32)「大師と衛門三郎の像」:
杖杉庵には衛門三郎のお墓があり
その前の道路沿いにこの像はある
撮影日時(2002/03/08 15:49)
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☆ 3日目 (H14,03,09 土 快晴で日射しが強い) 『 常楽寺での 思いやり 』
* 行程 : 「植村旅館」⇒ (11.1km) ⇒ 13番 大日寺 (だいにちじ) ⇒ (2.3km) ⇒ 14番 常楽寺 (じょうらくじ) ⇒ (0.8km) ⇒ 15番 国分寺 (こくぶんじ) ⇒ (1.7km) ⇒ 16番 観音寺 (かんおんじ) ⇒ (2.9km) ⇒ 17番 井戸寺 (いどじ) ⇒ (7.3km) ⇒「ビジネスホテル 近藤」
* 距離 : 26.1km = (Σ 105.0km)
* 歩数 : 40,900歩
* 宿泊 : 「ビジネスホテル 近藤」 (徳島県徳島市西大工町)
同宿の男性2人と一緒に朝食を食べながら、遅くなった昨日の歩きについて色々と聞かれる。
2人共 元気満々といった感じで少し気後れを感じる。
一人は千葉県 から来られた75歳の 左三川さん と云い、もう一人は 熊谷さん と云う。
靴敷きを取り出し、紐を全体的に弛めてもまだ膨らんだ足には全面からの圧迫感を感じる。
こんな事では今日の歩きが先ず心配だし、明日からの続行も心配になってくる。
リュックを背負う前に、靴の中で足を慣らし、外に出てみると山間の中で上方には快晴の空が見える。 家の前の水たまりには薄い氷が張って筋状に光って見える。
「 植村旅館 」 を出発する時、丁度 2人が 2階から降りて来る。
『 一足先に出発します。 また後で会いましょう。』
2人にひと声をかけて出発する。 時計は 6時40分。
川沿いの道左側にはサクラ色の布で出来た 「阿野のさくら祭り」 のフラッグが並んで 風に吹かれている。
薄着で出発して、身体がまだ温ってこないので少し肌寒い。
広野の町中を歩きながら妻に経過を電話する。 初めて持参した携帯電話の使い初めだ。
何とか無事に連絡出来たので少し安心する。
9時半、 [ 大日寺 ] に着く。 前回は2日目の3時過ぎ、氷雨混じりの冷たい雨の中、躰の心まで冷たく濡れて、疲労した足どりで到着したのを思いだす。
温かくなった日射しの中で参拝と納経を終え、ベンチに腰かけて琴さんに電話する。
急に彼女と何でもいいから電話で話をしてみたくなったのだ。
彼女と二言三言話をしたことで何か元気がでてきた感じがする。
混雑する境内の中で、左三川氏 と 熊谷氏 の姿を見つける。 左三川氏 が隣にきてベンチに腰を下ろし、
『 彼は 外人だろうか。 本堂で 柏手を打っていたよ。』
そういえば 熊谷氏 はなにかそんな感じもしないではないが気さくな話しぶりで歩きの早い人だ。
暫く雑談をしていると、左三川氏 は道路を渡って反対側に行ってしまったので独り次の [ 常楽寺 ] に向けて出発する。
[ 常楽寺 ] で 納経して貰っている時、手提げの牛乳を倒し、テーブルの上にこぼしてしまった。
『 すみません。 牛乳をこぼしてしまいました。 何か拭く物を貸してください。』
お願いすると、納経をしてくれていたご婦人が
『 いいですよ。 いいですよ。 』
と云いながら後の方に行き、布巾をもってきて
『 いいですよ。 これでちょっと 拭いといてください。』
気持ちよく、やさしい対応をして下さる。 このご婦人は多分 住職夫人 ではないかと想像したが、気持ちの良い対応をして下さり本当に有り難うございました。
[ 常楽寺 ] の納経所の状景と併せて、清々しい想い出として私の心に貴女のことは何時までも残っていると思います。
[ 観音寺 ] から [ 井戸寺 ] に向かって歩いていき、道の左手に 「華扇 」 と云う手頃な中華屋を見つけ、昼過ぎでお腹も空いてきたので入って昼飯を食べることにする。
ラーメン定食を肴に飲んだ冷たい 「生中」 は殊の外美味しく一気に飲み干してしまう。
そこへまたひょっこりと 左三川氏 が入ってきてお互いにびっくり。 入り口に荷物を降ろし、隣の席に腰掛る。
私のテーブルを見て彼も同じラーメン定食を注文する。
『 一足先に出発します。 また会いましょう。』
リュックを背負い、声をかけて店をでる。
* 歩き遍路では夫婦や親子などの場合は別として、2人とか3人が一緒に並んで歩くのはなかなか難しい。
だからこうして時々巡り会いながらも、歩くのは別々に歩いた方が歩き易く、お互いの励みにもなる。
休んだ後の歩き始めは何時も足が痛くて堪らない。 慣れるまではいつも大変な苦痛を感じる。
[ 井戸寺 ] から今夜の宿までの 7km は全身に疲労がたまり、歩くのがたまらなく厭になってきた。
街中に来て自転車に乗った 男性 に ホテル の場所を聞き、やっと大通りに面したホテルを見つけ、自動ドアを入る。
今夜の宿は ビジネスホテル だが、夕食と明朝の食事は準備してもらえるので弁当を買わなくても良い。
チェックインして部屋 に案内してもらう。
「14番札所 常楽寺」:
境内は自然のままの流水岩の
層の上に本堂も建つ
撮影日時(2002/03/09 10:14)
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☆ 4日目 (H14,03,10 日 快晴で暑い) 『 思い出の歩道 に来て 』
* 行程 : 「ビジネスホテル 近藤」⇒ (11.5km) ⇒ 18番 恩山寺 (おんざんじ) (H50) ⇒ (4.0km) ⇒ 19番 立江寺 (たつえじ) ⇒ (10.3km) ⇒「民宿 金子や」
* 距離 : 25.8km = (Σ 130.8km)
* 歩数 : 43,000歩
* 宿泊 : 「民宿 金子や」 (徳島県勝浦郡勝浦町)
ホテルを出て、別冊を頼りにしばらく南に歩き、「オリエントホテル」 の処で左折すべきところを気付かずにないままやり過ごし、いつまで歩いても遍路案内が出てこない。
何度も道行く人に尋ねたり、コンパスの助けを借りてやっと国道55号に出ることができた。
渡る橋の名前に 「 勝浦川橋 」 と書いてあり、やっと遍路道に復帰できたことが確認でき安堵する。 疲れも少しは薄らいでくる。
[ 恩山寺 ] から山間の遍路道をしばらく歩いてやっと廣いバイパスの県道に出る。
そして [ お京塚 ] へ向かう右側の歩道を歩きながら、前回の歩き遍路のとき、足が痛くて一歩も進めなくなり、歩道にぶっ座って、もう諦めて帰ろうかと悩んだ時、前の大戦で兵たちが食べる物もないまま飢えに苦しみながらも生きるために、来る日も来る日も悲惨な [ 死 ] の行軍をしていった場面を戦争映画で見たのを思い出し、またこれまでの自分の [ 死 ] を懸けて生きて来た人生を反省しながら
[ 足が痛いくらいで、おまえさんは何を大袈裟な事を云ってるんだ。]
と自分を叱咤しながら一歩いっぽと歩を進め、遂に [ 薬王寺 ] 前の旅館にたどり着いた時の事を思い出す。 なつかしい場所だ。
それに比べると今回の足の痛みはまだ少ないと思いながら [ お京塚 ] に参拝し、[ 立江寺 ] に向かって歩いて行く。
[ 立江寺 ] を出て 「 櫛渕小学校 」 の前で、先行する2人の男性に追いつき、挨拶して一緒になって歩いて行く。
そのうちの1人の方は道ばたの植物を指してはその名前など詳しく説明して下さる。
この方は全国を歩いては植物を収集し、その採集場所や日時などのデータを添えて大学に提出する事を趣味らしい仕事としておられる方で、後に納め札を交換して自己紹介し合うと、倉敷から来られた 稲若さん と云われ、私と同い年です。 もう1人の方は少し年長で埼玉から来られた 上原さん と云う方です。
稲若さん は立ち止まっては 草むらの小さな花や、延びた蔓などを指して名前を云いながら詳しく説明をして下さるが、聞くその端から忘れてしまい、と云うより全く記憶に残っていないから稲若さん に申し訳ない。
自分の老化を認識させられ、ただ聞いては、相づちを打っているだけの自分に情けなさを感じる。
ただ一つ、秋に咲く赤い花の彼岸花 「 マンジュシャゲ 」 の春の姿が水仙の葉っぱの様な姿と教えて貰い、これだけは記憶に残して置こうと意識して聞き、今でも憶えているので 稲若さん に大いに感謝しなければならない。
兎に角、植物の博学なのでその後、稲若さん のことを [ 博士 ] と呼ぶことにした。
「 生比農協会館 」 前にちょっと変わった濃い桃色のサクラ が満開になっており、近くの人たちが寄り集まって花見を楽しんでいる。
そこの 中年のご婦人 から
『 お遍路さん みかんを食べて 疲れを 癒して行って下さい。』
と蜜柑 3個を頂く。 小振りながら甘い蜜柑で美味しかった。
まだ 明るい 2 時半に 3人で 「 民宿 金子や 」 に到着。 2 年前 に泊まった時の事を懐かしく思い出す。
3 時まで外で待たされてから、3 階の 「 萩の間 」 に案内される。
夕食時、むかいの席に 左三川氏 が座っているのを発見、彼の同宿を知る。
隣の席には30歳代らしい A青年が靜に何も云わないでもくもくと食事をしている。
昼間あんなに天気が良かったのに夕方から雨になる。
☆ 5日目 (H14,03,11 月 曇りから暑い快晴に) 『 A青年との 出会い 』
* 行程 : 「民宿金子や」⇒ (6.5km) ⇒ 20番 鶴林寺 (かくりんじ) (H500) ⇒ (6.5km) ⇒ 21番 太龍寺 (たいりゅうじ) (H600) ⇒ (11.7km) ⇒ 22番 平等寺 (びょうどうじ) ⇒ (旅館の迎え) ⇒「民宿みゆき莊」
* 距離 : 24.7km = (Σ 155.5km)
* 歩数 : 31.600歩
* 宿泊 : 「民宿みゆき莊」 (徳島県阿南市 平等寺から北東7kmに位置し 車で送迎 Tel:0884-34-2144)
昨夜来の雨も上がって曇り空の朝、そして昼前からは回復して晴れ間も出てくる。
宿を出て左に回って登山道のへんろ道を登る。 歩き遍路道への入り口をやり過ごし車の道を進んでしまう。
昨夜の雨で山道はぬかるんでいる可能性があるのでかえって舗装された車の道に来た方のが良かったのかもと負け惜しみを独りで云い訳しながら急な長い坂道を登っていく。
[ 鶴林寺 ](H500) で 稲若氏 と昨夜食事の時、自分の左で静かに食べていた A青年 ( * 残念ながらこのA青年とは最後まで名前を紹介しあう機会がなかった。) と一緒になり、参拝を終わっての急な下り坂を 3人が連れになって 「那賀川」 (H140m) まで下って行く。
そして、今度は [ 太龍寺 ] ( H600 ) まで ポトポト、ポト ポトと熱い汗の玉を落としながらあまり話もすることなく山道を登って行く。
[ 太龍寺 ] からの遍路道は長い緩やかな下り坂で、 [ 鶴林寺 ] から登ったり下ったりして歩いた山道での足の疲労も極限になっていたので、A青年 と試みに後ろ向きになってゆっくりしたテンポの駆け足で下ってみた。
転ぶと危ないので十分気を付けないといけない。
やってみると驚くほど足の疲労が取れるので、2人して自己満足しながら時々止まっては、またやってみるを繰り返しながら山を下って行き、遂に 「民宿龍山莊」 (H70m) の前まで来てしまう。
稲若氏 と A青年 は今夜 「龍山莊」 を予約していると云うので、ここで2人と別れ、1人になって [ 平等寺 ] に向かって歩く。
「大根峠 」 ( H286 ) からの 3.5km の下り道は独りになって余計に長く感じられ、 [ 平等寺 ] の近くに来ると2ヶ所で道路工事をしており、足場の悪い処を歩かされ疲れた身体にはいやな体験だった。
[ 平等寺 ] の参拝 を終わり、山門の前から 「民宿みゆき莊」 に迎えを頼むと、15分位で車が来てくれる。
途中、足のテープを購入するために薬局に寄り道してもらい、宿舎に案内される。
夕食に食堂に下りていくと、また 左三川氏 と再会。 今夜の同宿者は 彼 と2人だけで、今日の歩きの様子などを話題にしながら頂く。
左三川氏 は明朝、国道55号線 まで送って欲しいと頼んでいる。 自分は [ 平等寺 ] の山門まで送って欲しいとお願いする。
* 「みゆき莊」 はお寺さんが経営しているそうで、缶ビールも自販機で販売しており、安く飲めるのは魅力だ。
部屋も、風呂もきれいで、料理も美味しく、また希望する場所に送迎して貰えるので、別冊には登録されてないが、
遍路宿の少ないこの付近では歩きお遍路にとって便利な民宿といえる。 (2食付きで \7,350)
* 今日の出来事
@ : 大相撲春場所開幕
A : 鈴木宗男議員の証人喚問
B : 英国で行方不明になった女性は北朝鮮に拉致されていた事が判明
「21番札所 大龍寺」:
納経所右隣の持仏堂大廊下には
竹村松嶺による龍が舞う天井
窓ガラス越しに外から撮す
撮影日時(2002/03/11 12:09)「22番札所 平等寺」:
緑、赤、黄色などの鮮やかな
色彩の本堂の天井絵
撮影日時(2002/03/11 15:53)
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☆ 6日目 (H14,03,12 火 快晴で暑い) 『 3人連れの乳母車お遍路との 出会い 』
* 行程 : 「民宿みゆき莊」⇒ (旅館の送り) ⇒ 22番 平等寺 (びょうどうじ) ⇒ (23.5km) ⇒ 23番 薬王寺 (やくおうじ) (H35)⇒「薬王寺参籠所薬師会館」
* 距離 : 23.5km = (Σ 179.0km)
* 歩数 : 25,400歩
* 宿泊 : 「23番札所薬王寺参籠所薬師会館」 (徳島県海部郡日和佐町)
7時に朝食を食べ終わり、2人ミニカーに乗り込んで先ず [ 平等寺 ] の山門前まで 住職 の運転で送ってもらう。
途中聞かせてもらった寺の歴史や近くの風土記などについての話は面白くて有益でした。
左三川氏 はここからもう少し先の国道まで送って貰うので ここでは自分だけ下車する。
発車する車を見送り、リュックを背負って歩き始める。 慣れてくるまで足の裏が痛くて前に進めない。
寺の前からまっ直ぐ延びているへんろ道は途中が工事中で通れないため、西側へ迂回して歩き県道を約5km歩いて 9時半に国道に出る。
間もなく通過する 「 鉦打 (カネウチ) トンネル 」 ( 301m ) は左側に立派な歩道があって歩き易く、気持ちよく歩ける。
ここでも無灯火で走行する車が多い。 歩きながら例しに対向車を数えてみると、点灯した車が14台に対し、無灯火の車は24台も走り去って行った。
無灯火の車は速度計など見にくいまま走っている事になり、万一停電してトンネル内の照明が消えた時には一瞬にして大事故になってしまうだろう。
運転中のドライバーはそんな時の怖さを想像しないのだろうか。
* 戦闘機を操縦してきた者には 想像するだけでも恐ろしいことだ。
[ 薬王寺 ] まで 1里くらいの処に来た時、前方に若い女性 1人 と 中年の男性 2人の3人連れが、右後ろ足を失った 小型の柴犬 を繋ぎ、車輪が外れそうに壊れかかった乳母車に毛布やテントなど一杯の荷物を積んでお遍路している一行に追いついた。
『 乳母車を押してのお遍路は大変ですね。 ワンチャンも元気をだして頑張ってヨ。 』
と思わず声をかける。
リーダーらしい最後尾の男性の乳母車の右前輪は今にも外れそうに右左に傾きながらも 何とか回転しながら進んでいる。
後ろから見ていると心配でなんとかしてあげたくなる。
『 1年くらい前に 「週間へんろ 」 に載っていましたよ。 』
と話し掛ける。 そしてその前を行く20歳代らしい 女性 に
『 ご両親ですか ? 』
と尋ねると
『 私の 叔父さん と 前を行く人は叔父の 友達 で男性です。 』
と云う。 1人だけ 5〜6m 先を歩いている人を体つきから女性と勘違いして、ご両親かと聞いたが実は男性だったのだ。
この人達は [ 1番霊山寺 ] を 2月17日に出発したそうで、結願するまでに4ヶ月くらいかかる予定だと云う。
野宿をしながら、寒い日、暑い日、雨の日、風の日と毎日が天気に左右され、健康維持も大変だろうと想像する。
犬を連れた男性は 愛知県 からで、乳母車 を押しての遍路は3回目だという。
前の男性は4回目、彼女は叔父さんに勧められて初めてついて来たと云う。
軽いリュック を背負っての歩き遍路でも大変なのに、この人達のお遍路は大変な苦難の連続だろうと頭が下がる。
『 最後まで元気で 頑張って下さい。 』
と励ましの声をかけて3人と別れて先にすすむ。 この若い女性は質素な身なりながら美人だったのです。
足が靴いっぱいにふくれあがり両足ともつま先がつかえて痛い。 それに歩道の熱さが伝わって足首から下が全体で痛む。
[ 薬王寺 ] に到着。 「 女厄坂 」 、「 男厄坂 」 の石段を上って本堂、大師堂の参拝を済ます。
その上にある 61段の「還暦厄坂 」を上って宝物展示の 「 瑜祇塔 (ユギトウ) 」 を見学しようと行ってみたが、靴を脱いで入室するのだと云われ、残念ながら諦めて入り口で礼拝して引き返す。
[ 薬王寺 ] から次の [ 最御崎寺 ] までの距離は 約81km あり、 [ 岩本寺 ] と [ 金剛福寺 ] の95km に次いで 2番目に長い。
門前に今夜宿泊する 「 薬師会館 」 がある。 その側の売店の奥さんに
『 この近くに 靴屋さんはありませんか? 』
と尋ねると
『 その向こうの 信号を左折して行くと 初めての交差点の角にあります。』
と教えてくれる。
はるか遠い処のようで、足が耐え難く痛むので気が進まないが何としても今の靴では明日から歩きに支障を来すので、気を取り直し 「 靴屋 」 を求めて歩いて行くことにする。
約500m くらい歩いた処に云われたとおり こぢんまりした店があった。
奧から 奥さん が出てきて、高い棚の上から箱を降ろし、28.5cm のスニーカーを探し出してくれる。
履いてみると今のより大分楽な感じなので買うことに決め、\4,500を支払って宿まで慣らしを兼ねて履いて帰る。
普通26cmの靴を履くのに 28.5cm とは自分でも些か不自然でお金を払うとき一寸躊躇する。
これなら明日からまた元気に歩けそうな気がして何だかうれしくなってきた。
今夜の宿の 「薬師会館」 は開放的な宿坊で、通された部屋(300A)も廣い。
靴下を脱いでみると 左拇指の爪が薄黒く変色して水がたまっている。
持参した新品の肥後ナイフ の先端で爪先から小さな穴を開け、押して水を抜き、ヨウチンを流し込む。
予想した以上の痛さで跳び上がってしまう。 早く回復させるには今はこれしか他に方法がない。
足の裏のマメの手入れも同じように ヨーチン と 赤チン で処置し、マッサージ をしてやる。
備え付けの 洗濯機 と 乾燥機 を使わせて貰い 今日の汗で汚れたも物を洗濯する。 乾燥機 もあるので最高に助かる。
ましてや無料で使用でき、洗剤も備わっている処は有り難い。 その点、この宿坊はベストと云える。
歩き遍路にとって、宿に着いて先ずしなければならないことは身体、特に足の手当、そして 洗濯、入浴、それから天候と疲労度を考慮して明日の行程を見直し、宿の確認等をしなければならない。
他の人と宿舎での競合も考えてこれらをスムーズに手っ取り早く終える事が必要だ。 そうしないと遅れた分、睡眠時間 も少なくなるからだ。
洗濯中、熊谷氏 が廊下の公衆電話を使って再三 電話をし直している。
後から聞くと彼も靴が合わず肉刺が出来て痛くて堪らず、自宅に電話して山歩きで慣らしたもう一つの靴を送って貰うのだと云う。
この辺りまで来ると誰も靴のマッチングが問題になってくるのだ。
宿の風呂は大きく気持ちがよい。 歩き疲れた身体には風呂が最高の癒しだ。
兎に角、最高にいい気分だ。 見ると両足ともまるまると腫れている。 これまでの靴では何としても足がかわいそうだ。
靴を買い直したので明日からの歩きが楽しみになり、遠足前日の子供のように はしゃぎたい気分になる。
後から青年が1人入浴して来る。 先日 「 金子や 」 で隣の席で食事をし、次の日に坂道を後ろ向きになって一緒に歩いた A青年だ。
『 こんにちは。 また会いましたね。』
と云うと、
『 そうですねぇー、 また会えましたね。』
と 静かに応えてくれる。 足の話になって 彼が シップ薬を持っているので、部屋に持って行ってやると云ってくれる。
風呂から上がって、わざわざ部屋まで シップ貼り薬を 4枚持ってきてくれる。
彼もこれから必要なのに私に分けて呉れる心の優しさに感謝し、素晴らしい出会いを有り難く思う。
A青年とは 3/10 に初めて出会い、そしてこれが最後の出会いでした。 何時までも 元気で頑張って下さい。
「 乳母車を押してゆくお遍路さん 」:
右後足の無い小さな柴犬と一緒に
国道55号線を薬王寺に向って行く
3人連れのをお遍路さん一行
撮影日時(2002/03/12 12:06)
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☆ 7日目 (H14,03,13 水 快晴で暑い) 『 若い奥さんとの 出会い 』
* 行程 : 「23番札所薬王寺参籠所薬師会館」⇒ (20.1km) ⇒ 鯖大師 (さばたいし) ⇒ (8.2km) ⇒「みなみ旅館」
* 距離 : 28.3km = (Σ 207.3km)
* 歩数 : 30,200歩
* 宿泊 : 「みなみ旅館」 (徳島県海部郡海部町)
1階 の食堂で朝食を終わり、昨日まで履いていた靴を荷造りして自宅宛てに宅配便で返送を依頼する。
新しい靴を履いて 7 時過ぎ 室戸への長い遍路の旅に出発する。
昨日までと比べ圧迫感が少なくて軽くて、つま先や足の裏の痛みも軽減され随分と歩きやすい。
[ 薬王寺 ] の前から国道55号を西に進むと間もなく 「 日和佐トンネル 」 (690m) にでる。
ここは 白線が中央に1本、両側に1本づつの3本が引いてあるだけで歩道の仕切もない。
どうも四国の道は車だけを考えて造られているようで、人の歩く道の事は念頭にないらしい。
すぐ近くを無灯火の車が走り抜ける度に肝を冷やしながら、約10分かかってやっとの思いでトンネルを通り抜ける。
牟岐町に入って最初に見つけた店に入り、牛乳パックとあんパン3個を買う。 店の主人 が 売り物のポンカン5個を取りだし
『 これを接待させて下さい。』
と云って一緒に袋に入れて下さる。 ご好意に感謝し、納め札を渡して有り難くお礼を云って店を出る。
しばらく行くと 「 牟岐警察署 」 の横で 「 歩きお遍路接待所 」 と書かれた看板を出したテントから 2人のご婦人 が出てきて、道の向こうから大声で呼び止められ、道を渡って行くと
『 どうぞ休んで行って下さい。 コーヒーがいいですか、お茶がいいですか? 』
と大きな声で歓迎される。
『 すみませんねぇ。 それでは遠慮なくコーヒーをご馳走して下さい。 できるだけ甘くして下さい。』
とお願いし、リュックを降ろして腰かける。 一寸でもいいから何か書いて行って下さいと出されたメモノートに
* 2回目の独り通し歩き遍路をしております。 四国の皆様のご好意がとてもうれしいです。
結願まで頑張って八十八ヶ所をお参りさせて頂きます。 ありがとうございました。 [住所・氏名]
と記入する。 出がけに
『 これを着けていって下さい。 これもどうぞ。』
と安全タスキとお菓子の包みを下さる。 安全タスキは早速 リュックの背中に結びつけ、納め札に感謝の言葉を記入して渡し、2人にお礼を云って出発する。
今回の歩きお遍路で 「 牟岐警察署 」 の隣のテント村と共に想い出に残る出会いを下さったお2人にお礼を申します。 有り難うございました。
出発の時は慣れてくるまで、暫くの間足の痛みがまた顕著になる。
海部町 に入る手前の旧道を歩いていて、前方から生後半年くらいの赤ちゃんを乳母車に乗せて歩いてくる 若い奥さん に声をかけて、「 海部大橋 」 へ至る道順を尋ねると
『 この向こうの信号をそのまま真っ直ぐに暫く行くと橋に出ます。 頑張って下さい。 お疲れさまです。 お気をつけて。』
と親切に教えてくれる。 安心して大橋へ向かって歩く。
今夜の宿はもう近くだ。 その手前には 「 郵便局 」 もある筈なのでお金もおろして行こうと元気を取り戻して歩いていく。
何か後ろの方で呼ぶような声がするので振り向くと、先ほどの奥さんが 乳母車 を押しながら急ぎ足で自分を呼んでいるのです。
何が起こったのだろうと急いで戻っていくと、
『 あの信号に行くと前方が高くなっていて 川や橋も見えないと思いますが、道に沿って行って下さい。 暫く行くと橋に出ますから。』
若い奥さんのそこまでの親切に有り難く頭が下がる。 右手で拝み手をしてお礼を述べ、彼女の去りゆく後ろ姿に頭を下げる。
教えられた通り橋に向かって歩いていると知らずしらず両目から涙があふれてしまう。
四国を歩いていると何かにつけて、何故か直ぐに涙が出てくる。 涙もろくなってしまう。
あの奥さん - - - 色白で面なが、長身の美人だった。
そうだ千歳で一緒だった同期の白鳥君の奥さんに面影がよく似ている。
そういえば最近すっかりご無沙汰していた事を思いだし反省する。
見えなかった橋も視界に入り、橋を渡って間もなく 「 海部郵便局 」 を見つけて15万円を引き出す。
向かいの 「 みなみ旅館 」 の玄関に入って、
『 ご免下さい 。』
大声で呼んでみるが返事が返ってこない。
ふとその時、先日 [ 柳水庵 ] で別れて以来の 真崎さん が入ってきた。 お互い 再会にビックリして挨拶を交わす。
暫くして奧から 宿の主人 が出てきて名前を聞かれ、6号室に案内される。
洗濯機、乾燥機も使用できると聞いて直ぐに着替え、洗濯をセットして部屋に帰って足の手入れをする。
両方の足にまた新しく大きめのマメができたが、足の腫れは昨日より引いており、安心できる。
風呂が沸いたと知らされ急いで入浴する。 何よりも入浴が疲労回復に最高の薬だ。
隣の海南町 に住む大学同期の 福田君 に電話してみる。
『 また歩き遍路に出て、今、隣の海部町の 「 みなみ旅館 」 に泊まっている。』
と伝えると、
『 ここから近い。 今からすぐ行く。』
と云ってくれる。 彼の家はここから 2km くらいの処だ。 間もなく部屋を訪ねてくれる。
前回のときお世話になったお礼を云い、2年振りの元気な再会を喜ぶ。
彼は今も社交ダンスに生き甲斐をもって地域ボランティアの活動を続けていると云う。 毎日が忙しいとも云う。
防府基地で見送った時の面影を今も残しており、余り変わった感じがしない。
お互いが並行して年を取ってるからだろう。 そして至って元気そうだ。
自分の足の具合を気遣って、盛んに無理をするなと云ってくれる。
彼の好意が有り難い。
しかし、通し歩きお遍路をやり遂げるには無理を押し切り、苦痛に耐え抜かなければ達成できないことは覚悟して来ている。
彼が引き上げた後、真崎さん 達と一緒に夕食を食べ、早めに床に入る。
今日は天気が良くて気温も上がり暑い1日だった。
* 今日の出来事
@ : 敬宮愛子殿下のお宮参り
☆ 8日目 (H14,03,14 木 快晴で暑い、午後曇りから雨に) 『 父母の 供養 』
* 行程 : 「みなみ旅館」⇒ (15.6km) ⇒ 東洋大師 (別名:明徳寺) ⇒ (18.0km) ⇒「民宿 ロッジ尾崎」
* 距離 : 33.6km = (Σ 240.9km)
* 歩数 : 38,800歩
* 宿泊 : 「民宿ロッジ尾崎」 (高知県室戸市佐喜浜町)
夜中に何度も目が覚めて熟睡出来ないまま朝になってしまう。
昨夜は 真崎さん と他に 男性4人 の総勢6人が宿泊しており、みんな歩きお遍路と分かる。
朝食を済ますと梅干しのおむすび2個と味海苔をお接待して頂き、支度を整えると6時半頃からそれぞれ個々に室戸を目指して出発する。
ここから室戸まで人家のない山と海にはさまれた 50kmを超す長丁場が始まる。
前回の経験から、今日 明日の歩きお遍路で何かの体験をさせてくれるかもしれない。
今日も歩き始めは足の裏が痛みが全身をしびれさすように痛むが、そんな事は云っておられず 1歩 いっぽ 足を動かして前に進む。
今日は室戸への変化のない殺風景な国道55号を1日中歩くのだが、昔は切り立った山が海岸まで落ち込むお遍路泣かせの 四国第一の難所 で、「 ゴロ ゴロ石 」 と 「 飛び石 , 跳ね石 」 の中を難儀して歩いて行かなければならなかったそうだが、今のこの景色をみていると昔の苦難の様子が想像できる。
暫く歩くと左手に朝日にキラキラと光る太平洋と 「 宍喰海岸 」 の白い砂浜が見えてきた。
『 そうだ、ここが最適の場所だ。 』
きれいな砂浜に故人の名前や戒名を書いてお祈りし、それを満ちてきた波で洗い流す供養の仕方があると聞いて、これを今回の歩きお遍路での両親の供養にやって行きたいと出発前から考えて来た。
ここの海岸は それにふさわしい場所に違いない。
★ 遍路関連の記述書によると、こうした祖先の供養のやり方を 「波潅頂」 または 「波供養」 と呼ばれて海岸には人影も見えないし、砂浜も朝日に輝いて最高にきれいだ。 海岸に下りてここでやって行こう。
旧くから歩きお遍路の間で行われていたと云う。
防波堤の切れ間から砂浜に下り、リュックを降ろして、波打ち際に近いきれいな場所を探す。
健康で 五体満足 な自分を生んで呉れたお袋に、 そしてこれまで自分が生きてくる心の支えであった 「 負けず嫌いな根性 」 ( 時にはこれが禍にもなったが ) を残して呉れ、約50年前の大学1年の時に逝ってしまった 親父に、 感謝しながら、砂浜に
ーー閔堅院釋晃照不退居士 俗名 竹次 (享年 69歳)
ーー妙相院釋尼芳照大姉 俗名 マツ (享年100歳)
と書いて、その頭に 金剛杖 を立てて合掌する。
しばらく立ちつくして祈っていると、横須賀 に出発する前夜、18とはいえ独りで旅立たせる息子の事を心配し、くどくど と忠告を並べた親父の元気な姿を。
また90歳 になっても 長州・宇部 から独り新幹線に乗って 尾張 ・ 名古屋 まで孫の顔を見に訪ねてくれ、まだ幼なかった子供達と嬉しそうに戯れていた小さくなったお袋の姿が脳裏に浮かんでくる。
止めどもなく涙がこぼれ落ちてくる。 誰もいないので遠慮なく泣ける。
出発する前からの念願がいまやっと実現できて安堵する。 新たな元気が湧き出たような気にもなれる。
足を痛め、あのままではお遍路を諦めなければならなかったかも知れないのに、靴を買い替えて調子を取り戻し 「 発心の阿波 」 から長い道のりが続 く「 修行の土佐 」 にこれから入るのだ。
10 時、遍路道に面した [ 東洋大師 ( 明徳寺 ) ] にお参りして納経してもらう。
宍喰の浜で両親の供養をしてきたが、涙が出て仕方がなかった住職さんに話すと、
『 歩いていると涙が止まらなくなったと云うお遍路さんの話をよく聞きますよ。 』
と住職さんが相づちを打ってくれる。
「 伏越の鼻 」 にさしかかると 打ち寄せる荒波の勢いも急に増して、前回 「 夫婦岩 」 を越した時の状景を思い出し、昔の人たちの苦難の程が偲ばれてまたも涙がこぼれてくる。
昔のお遍路さん達は、ここ 伏越の鼻 から 入木 までの 「 淀ヶ礒 」 とよばれる約4里の間は人家ひとつなく、切りたった山が海にじかに落ちこみ、勿論雨やどりする所はなく、ゴロゴロと波打つ石の音にもおびえ 「 飛び石 」 、 「 跳ね石 」 で足も身体も局限まで疲れ果て、おぼつかない足どりになっても命を懸けて次の 札所 [ 最御崎寺 ] をめざして前進して行ったと先人たちの手記にその苦難の記録が残っている。
★ 室戸岬 [最御崎寺 ] への遍路道について
現在の国道<55号線>が海岸沿いに走るまでは、大変な難所であったと云う。
伏越の鼻<室戸岬まで50km>から入木までの「淀ヶ磯」四里は、山と海だけの、人家一つない、雨宿りする処もない
「ゴロゴロ石」と「飛び石、跳ね石」の中を進む四国第一の難所と、先人達は手記の中に書いている。
お遍路は皆、ゴロゴロと波打つ石の音におびえ、孤独と不安の気持ちで一生懸命に先へと急いで行ったのであろう。
同じ歩く遍路でも今昔では隔世の観があり、先人達の苦労が偲ばれる。 (遍路案内誌より引用)
今、これほどに整備された国道55号を歩いていても昔のお遍路さん達がさぞや苦労されたであろう事が容易に想像できる。
まさしく、ここは四国第一の難所であった事は間違いない。
今夜の宿を予約した 「 民宿ロッジ尾崎 」 までの道中、余り傷んでもいないのに路面を掘り返し片側通行にして舗装工事を続けているのをみると歩きの邪魔にもなり、無駄遣いと、昔のひとにも申し訳ないような気がして余計に腹立たしくもなってくる。
[ 法海上人堂 ] の近くで、山から流れ出た冷たい水を水桶に貯めて、地元の人が 「 歩きお遍路さんどうぞ 」 と入れてくれた小さいトマトが浮かんでいる。
立ったまま今朝お接待で頂いたおにぎりを冷い水を飲みながら食べる。
冷えたトマトもご馳走になる。 美味しい。
宿の 「 民宿ロッジ尾崎 」 では年老いた女将さんが1人で出迎えてくれ、2階の部屋に案内してくれる。 暫くすると先日一緒に歩いた上原氏 が
『 相部屋です。』
と入ってくる。
夕食に1階に下りてみると今夜の同宿者は知人の 真崎さんと 稲若氏 と 上原氏、 そして今日初めて一緒になった埼玉から来たと云う 川越さん と他に女性が1人、全部で6名。
稲若氏 および 上原氏 とは 3/10 に初めて出会い、そして今朝が最後の出会いになりました。 何時までも 元気で頑張って下さい。
[その後 稲若氏 から頂いた e-Mail に依ると稲若さんは4月24日に無事結願されたとのこと。 おめでとうございます。]
今日は 日射しが強く、暑い1日だったが、宿に着いて間もなくから雨が降りだし、夜半からは風雨が更に強くなり、荒れ模様になってくる。
前回を思い出し、明日の 「 夫婦岩 」 越えが心配になってくる。 宿は埃りっぽく息苦しい感じだ。
できることなら前回泊まった 「 民宿とくます 」 に泊まりたかったが、 「 空海の道ウオーク 」 の団体客が宿泊していて残念ながら予約が取れなかった。
「 波 供 養 」:
室戸への遍路の途中、宍喰海岸の砂浜に
亡き父母の戒名と俗名を書いて波供養
「南無阿弥陀仏」
撮影日時(2002/03/14 07:52)
=スライドを観て下さい=
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☆ 9日目 (H14,03,15 金 澄み切った快晴で暑い) 『 ベビーとの 出会い 』
* 行程 : 「民宿 ロッジ尾崎」⇒ (18.7km) ⇒ 24番 最御崎寺 (ほつみさきじ) (H165) ⇒ (6.8km) ⇒ 25番 津照寺 (しんしょうじ) ⇒ (4.2km) ⇒ 26番 金剛頂寺 (こんごうちょうじ) (H165) ⇒「金剛頂寺宿坊」
* 距離 : 29.7km = (Σ 270.6km)
* 歩数 : 42,300歩
* 宿泊 : 「金剛頂寺宿坊」 (高知県室戸市元崎山)
昨夜の風雨もおさまり、東の空には台風一過を思わせるように、雲間には昇ってくる太陽も見えるまでに回復している。
海は今も怒濤の荒波が太平洋からうち寄せ、塩辛い飛沫が国道を濡らしている。
心配していた 「 夫婦岩 」 は たいした苦労も無く通過させてくれる。
室戸までのまだ長い道のりは足の裏の痛さがこたえ、今朝も慣れるまで一歩いっぽと我慢しながら歩いていく。
「 民宿とくます 」 の前を歩いて行くと部屋の 2階から浴衣姿の男性が手を振って見送って呉れている。 熊谷氏 だ。
彼はここにもう1泊して自宅から送って貰った靴を待つのだと云う。 慣れた靴に履き替えて頑張ってくださいと声援を送って別れる。
熊谷氏とは 3/09 に初めて出会い、そしてこれが最後の出会いになりました。 最後まで歩きぬき、何時までも 元気で頑張って下さい。
こうして 室戸岬 に向かって歩いていると、来月誕生予定のベビーが 目の前に出てきて [爺] と二人で何時の間にか対話を始めていました。
日頃、7歳 と 5歳 の孫達を相手に遊んでいるそんな状況の中に初めて見るベビーが出てきて、爺 とお話をしながら一緒に遊んでいるのです。
前回の時も、戦後の疎開で可愛がって貰った 石州 ・井原 の 叔父 や 叔母 が出てきて久しぶりに話ができたが、今回も 室戸 へ向かう長いへんろ道で起こる同じような不思議な幻想的出来事だったのです。
ベビーとの対話に熱中していると、 [ 最御崎寺 ] へ上る山道の入り口をやり過ごし、何時の間にか岬を回って西側のスカイライン入り口まで来ていたのです。
平均勾配が10度というコンクリートの長い坂道を真夏の様なキラキラ太陽をまともに受けながら汗びっしょりになって [ 最御崎寺 ] を目指して登って行きます。
両親の供養とさっき夢の世界に出て来てくれた孫の無事な安産を祈願し、再び スカイライン を下りていく。
前回は往復とも東海岸の山道のへんろ道を歩いたが、今回は逆に西側の 車道スカイライン を歩くことになった。
後で聞くと今日は26℃を越える夏日だったそうで、すっかり汗を搾りだし、日焼けで両手首がまっ黒になっていた。
[ 津照寺 ] が近づくと人家も増え、薬屋 を見つけて 湿布薬 を購入する。
国道から [ 金剛頂寺 ] ( H165 ) へ向かう車道もまた長く、急な坂道で、強い日射しの中をまたも汗びっしょりになって上って行く。
今夜はここの 「 宿坊 」 に泊まらせてもらう事になっている。
お参りを終えて時計を見ると未だ14時だ。
チェックインには早すぎるので木陰のベンチにリュックを降ろし、汗を乾かしながらメモ帳を出して生まれくる孫との初めての対話の様子など今日の歩きの模様を記憶の新しいうちにメモをとる。
今夜は 「 金剛頂寺宿坊 」 に宿泊させて貰う。 施設、応対とも一流旅館並で、宿坊の雰囲気ではなく、特に料理が最高。
夕食に集まると、歩き遍路は 真崎さん と 川越氏 、そして他に男性1人の4人で、隣のテーブルには車で回っているらしい10人くらいの団体客が席に着いている。
美味しい料理がふんだんに並び、昨夜とは比較にならない豪華な気分の夕食で嬉しい。
夕食を終わり、今日幻想の世界に出てきて呉れてたベビー宛に メッセージ を書いて 琴さん宛に e-Mail で発信する。
お腹の赤ん坊に 「 爺からの最初の メイル 」 だと云って2人で読んでやってくれと 直接電話 でも依頼する。
*『 ヂヂから元氣で産まれてきて欲しい ベビー へ一言 』
「延々と果てしなく続く室戸へのへんろ道で君と初めて「ヂヂと孫とのお話」をすることができたね。
そのお陰で足の痛さも暫くの間 楽にさせて呉れたね。有り難う。
ヂヂの遍路姿を見て、お前は必ず安産で生れ、健康に育ち、今日見た青年太師の様に世の人の為に役立つ人間に成長して下さい。
君の誕生予定まであと6週間。 君と初めて会える日を楽しみに結願できる日まで爺は明日も張りきって歩き続けます。
平成14年3月15日夜、第26番札所 金剛頂寺宿坊 にて、 ヂヂより。」
☆ [健介君 誕生の報告] (H14.05.20)
無事結願して帰宅して9日目の 平成14年4月21日(大安の日曜日) の午後3時46分 母親の郷里・茨木市内の病院で元気な産声を上げました。
赤子は体重は 3,684グラム、 身長は 53.5cm、の元気な大きな男の子でした。
長男・克彦にとってはうれしい初めての子で、私には3番目の後継の孫です。
[健介君] と命名されました。
51番札所石手寺 の「訶梨帝母天堂」を始め、お遍路中の各寺でこの子の安産を祈願してきたお陰だと感謝しております。
「 夫 婦 岩 」: 室戸岬まで13kmの処にあり 前回のお遍路では危険を体験して やっと通り抜ける事が出来た想い出の場所 撮影日時(2002/0315 07:29) |
「 青年大師像 」: 生まれくる孫よ [かくあれ] と 祈りつつ歩く 撮影日時(2002/03/15 10:05) |
「27番札所 神峯寺」: 納経所の前にある名水の泉 「神峯の水」の傍らで 撮影日時(2002/03/16 13:52) |
「峠の旧いトンネル」: 夜須町旧道の峠に煉瓦造りのトンネル 涼しい風が吹き抜け、歩きの疲れを癒してくれる 大声を張りあげて久しぶりの号令調整で疲れもスッキリ 撮影日時(2002/03/17 12:12) |
「 お 馬 路 」: 竹林寺東参道の別名で、昔 安政の頃 お寺の洗濯物を集める娘お馬と純信との恋路で 近くには二人が逢う瀬を重ねた「お馬岩」がある 撮影日時(2002/03/18 12:34) |
「31番札所 竹林寺」: よさこい節で唱われる純信のいたお寺で 総檜造りの五重塔は高知県内で 最も美しいと云われている 撮影日時(2002/03/18 13:00) |
「種崎フェリー」: 雪蹊寺に向かうお遍路を無料で 種崎から5分で浦戸湾を渡って 対岸の長浜に送ってくれます 撮影日時(2002/03/18 16:50) |
「 人生 即 遍路 」: 四国おへんろでは 辛くても苦しくても ただ無心に歩き続けていると 山頭火の云う 人生そのもの が見えてくるのです (33番雪蹊寺の門前) 撮影日時(2002/03/19 06:52) |
「 35番札所 清滝寺 」: 仁王門の天井に描かれた 見事な龍の絵 撮影日時(2002/03/19 11:27) |
「 宇佐大橋 」: お遍路さんは 36番青龍寺 を参拝するためには 浦の内湾を跨ぐこの美しい宇佐大橋を 歩いて往復します 撮影日時(2002/03/19 14:10) |
「岩本寺へのへんろ案内」: 仏坂峠を越えるへんろ道入口にある へんろ案内標識 撮影日時(2002/03/20 09::46) |
「 山道に咲くさくら 」: 「岩不動」 からの下り道では 桜が静かに咲いて お遍路を癒してくれる 撮影日時(2002/03/20 10:18) |
「2年前と同じ姿の放置廃車」: 岩不動から須崎市へ向かう遍路道の傍には 2年前と同じ姿で廃車が鎮座していました 撮影日時(2002/03/20 10:42) |
左三川さん とは 3/09 に初めて出会い、そしてこれが最後の出会いでした。 何時までも元気で頑張って下さい。
左三川さんから 約1年後、 多くの日々を共に歩いた昨年春のお遍路記録を送って頂きました。
また、その時 打ち残した [ 38番金剛福寺 ] から [ 88番大窪寺 ] までの歩きの経過と結願の喜び、そして [ 1番霊山寺 ] へのお礼参りの遍路旅を
平成15年3月1日から3月25日にかけて達成され、彼にとって2度目の結願を成就されたとのことです。
左三川さん おめでとうございます。 (H15.4.16)
「 37番札所 岩本寺 」: 本堂の内陣格子の美しい天井絵 仏様や花もあれば マリリン・モンローもいる 撮影日時(2002/03/21 12:16) |
「 熊井トンネル説明文 」: 時の古老が 「トンネルというものは入口は大きいが 出口は小さいものじゃのう」 と言ったと書いてある 撮影日時(2002/03/22 07:19) |
「 熊井トンネル 」: 明治38年(1905)12月竣工した90mのトンネル 今見ても出口はずいぶん小さいです 撮影日時(2002/03/22 07:20) |
「 真念庵 」: 下から望んだ窄らしい佇まい 静寂そのものでした 撮影日時(2002/03/23 08:58) |
「 真念庵の下で昼食」: 庵から10m下りた農道で 暫しの休息(食事)をとる 撮影日時(2002/03/23 09:16) |
「 大岐の浜で波供養 」: 最高に美しい白砂の浜が1,600m続く 両親の戒名と俗名を書いて この旅2度目の波供養をする 撮影日時(2002/03/23 12:49) |
「 38番札所 金剛福寺 」: 息子克彦の姿を求めて境内を探し回る 携帯電話も通話域外で益々不安がつのる 撮影日時(2002/03/24 09:51) |
「 長男克彦とやっと会合 」: 大阪箕面市から土日を利用して 親父の歩きお遍路を陣中見舞いに 訪ねてくれ感激の出会いでした 撮影日時(2002/03/24 11:20) |
「 大岐の浜 」: 打ち返しのお遍路も はまみち を歩き 振り返ると自分の足跡だけが 海岸線に並行に残されていました 撮影日時(2002/03/24 15:01) |
- 以上 -