(平成18年08月25日 公開)
(平成27年08月11日 更新・追記)


緒 言

両親に関して私の記憶に残っている最も古い出来事は 『紀元2,600年を祝う提灯行列』(昭和15年) です
お袋の背中に負われて肩越しに提灯を持って参加した時の情景がかすかに残っています
この提灯行列は国家行事でしたから、そこには親父も一緒にいたことだろうと回想しますが定かではありません
これは昭和15年(1940) の皇紀2600年を慶賀するため行事で、記録を調べると その年の 11月10日 に皇居前広場を始め全国各地で開かれたそうです
だとすると、私が 満5歳になる直前のことだったのです  参考に私の誕生日は昭和10年11月16日です

そして、親父についての最後の記憶は 昭和29年保安大學校1年の夏休みに初めて郷里の宇部市に帰って約1ヶ月間、お袋の手料理を肴にして一緒に食卓を囲み、親父の隣に坐って酒を飲んだ時のことです

その頃 (昭和29年) の日本はまだ食糧事情が悪く、大學では主食の米粒の代わりに米軍から払い下げられた援助物資 (当時ララ物資と呼ばれてたと記憶) のメリケン粉をこねて圧縮し米粒の形に整形した [人造米] と呼ばれる代用品が米粒と半々くらいに混ぜて炊かれたご飯でした
時にはご飯の食器 (当時はアルミ製の食器が使われていた) には玉子大の人造米の塊(味のないネチネチした固いダンゴです)の周りにご飯粒をまぶしたような格好で大きなのが1個だけ入っていると云うような最悪なこともありました
そんな時は腹を空かして帰ってきて食卓に着いても特に夏などは容易には喉を通らないのです  勿論当時はエアコンなとありません
お茶と味噌汁で流しこんでとにかく空腹を満たして体力を維持しておりました
でも戦中戦後の厳しい食料難の時代を経験した自分達には満腹になるまで食べさせてくれる保安大学校は有難い存在ではあったのです

小原台に帰るとまたあのメリケン粉の [人造米] が食卓にでてくると想像すると心の中で無性に学校に帰っていくのがいやで、夏休みの終わりが近づくのが無性に寂しかったことを記憶しています  でも今思えば、横須賀の街には空腹を我慢しながら路傍に彷徨う人も多かった時代ですから自分の学生生活は当時とすれば相当に恵まれていたのです
学校では衣食住が与えられているだけでなく学生手当として小遣いが 3,200円 が支給されていました  当時の大卒の初任給は1万円をきる 9,000円 それがしだったのです

そんな気持ちに心を曇らせながらも顔では 「がんばってきます」 と昭和29年8月28日の朝、無理にも笑顔を作って発つ自分を玄関で見送ってくれる両親に別れを言って出発した時が親父との最後の別れになったのです

2学期が始まって2週間が経った9月14日(火) の朝、いつもの起床点呼を終わり、久里浜の112小隊学生舎に帰ってくると拡声器で2階の指導官室に来るようにと名指しで呼び出されたのです

不吉な予感を抱きながらなんだろうと急いで階段を駆け上って当直指導官室に決められていた敬礼をして入室すると当直士官の横山1等陸士 (当時の陸軍大尉の呼称) から
1通の紙きれが電報だと知らされて手渡されました

  「 チチシス スグカエレ ハハ 」

のカナ文字が読みとれました  父が急死したことを知らせる母からの電報です
当時は家族の死去など緊急を報せる手段は電報だけで電話は使われていませんでした
この電報の報せで受けたショックは今でも忘れられずに残っております

  見送ってくれたときはあんなに元気だった親爺だったのに
  夏休みの間中連日のように一緒に心行くまで飲みかわした
  親爺だったのに
  卒業した後の将校の制服姿を見たいとあんなに期待していた
  親爺なのにどうしてもこの電報の文字が現実として
  理解されてこないのです

特急列車に乗りこみ一昼夜をかけてわが家に着いてみると大阪の義兄や井原の叔母が既に着いて私の帰着を待っていました
そしてその席で父が自死だった事を義兄から知らせれたのです


大食堂で一緒に朝食を食べながら小隊の先輩(1期生)や、同期生に事の次第を告げ、帰省の仕度を済ませて横須賀線を経由して東海道本線の大船駅に向かいました
当時は特急に乗れても久里浜から宇部の自宅までほぼ1昼夜はかかったように記憶しています


兎に角、父は他に例をみない厳格すぎる親父でした  子供の頃、板張りの廊下に正座させられて真夜中を過ごしたことも一度ならずありました
そんな親父が他界した時、私はもう大学生でしたから親をなくしても決して早すぎる歳ではないのですが、今日限り自分にはこの世に親爺と云う存在が居なくなったと云うことは人性最大の事件であったことは事実です

自分の脳裡に親父としての記憶が残っているのは5歳の頃が最初でそれから上京するまでの約13年間は、大東亜戦争中の米軍の空襲に堪えて過ごしたこと、石州・井原への疎開で叔父さん叔母さんに可愛がられ育ててもらった3年間、そして再び宇部に帰ってきての神原中学、宇部高校を卒業し、そして大學受験を経て保安大学校1年の1学期までの間でした

平成12年春の 『初めてのお遍路』、そして平成14年春に歩いた2度目の 『出会いのお遍路』、そして平成18年の 『108寺のお遍路』 の途中で今は亡き 親父 と お袋、そして叔父さん、叔母さん と対話をしながら歩いていると空想の世界に入ってしまい、つぶれた肉刺の痛さも忘れて歩くことができたのです

日々薄らぎ、定かでなくなる 親父やお袋、そして叔父さん、叔母さんとの想い出を [自分史] の大切な1ページとして1日も早くできるだけ正確に書き留めておくことが急務だと思い、お遍路の途中で思い付くことを書き留めておいた メモ を出してきて纏め始めました   想い出すのは何とも厳格な父だったことです  何度、板の廊下に正座させられたことだろうか

やっと 『百八寺のお遍路』 の整理も一段落したので、このメモを手元に思い出せるまま、親爺が逝った年令をとっくに過ぎて少しずつ老いゆく自分を振り返りながら想い出せるままにひとつずつ書き記していきます

今、この世の中で一番崇拝できる人、尊敬できる人は誰かと聞かれたら
 『親父の 日高竹次 です』
と私は迷わず答えます  そしてそれが自分の一生の誇りでもあります

この世の中で一番お世話になり、感謝する人は誰かと聞かれたら、勿論両親を連想します
でも、やはり私は
 『それは石洲・井原の 叔父の柘植五市さん そして 叔母の柘植タケさん  です』
と答えたいです

私が今こうして70歳を過ぎても人並み以上に健康であり、健全な精神で他人に伍して活きていけるのはこの4人のお陰です
本当にありがとうございました

既に過去の人となった4人の方に深い感謝の気持ちを込めて 『親父の想い出』 と題してこの1ページを記述します (H18.08)



こうして元気に70歳の古希を迎え、そして四国八十八ヶ所を元気に3回も通し歩きで巡ることができました
このように人並み以上の丈夫さでこれまで生きてこれたのは他ならぬこの自分を産んでくれた親父の竹次とお袋のマツであり、
そして自分の身体のなかに二人が残してくれた遺伝子・DNA、生来の[根性] と [負けず嫌い] が今の自分を四方から支えてくれているのです
そして [日本の田舎] に抱く私の尽きない愛着の気持ちは 石州井原で過ごした戦後の3年間、疎開生活の中で厳しく育んでくれた
叔父の五市さんと叔母のタケさんのお陰であることは疑う余地がありません
心から感謝の気持ちを込めて回想の一面一文で書き記していきたいと思います
 (H19.02)






自宅 (寓居) 土蔵前での 元気な親父 (68歳)
[ 昭和29年4月 撮影 爺さん]


親父の名前は [日高竹次] と云います

明治19年(1886) 01月20日に 父:新次郎 (昭和11年10月5日 享年83歳で没) と 母:ジュン (昭和20年2月19日 享年92歳で没) の長男として生まれました

生家は 島根県 邑智郡 井原村 上町 の 『槇の屋』 といいます  今は絶えて建屋の跡形も残っておりません(H20現在)

詳しい事は判りませんが両親が青年の若かりし頃だろうと想像しますが、 お袋と一緒になって一旗揚げようと大正の御時世に炭鉱の町・山口県宇部市に出てきて、汗水流して働き始めたのです

勤め始めた炭砿は『東見初炭砿』と云い、そこでは炭鉱の社宅に入り、2人一緒にで先山(つるはしを振り下ろして石炭の岩盤を崩して掘りだすいちばん大変な重労働の役です)で働いていたと聞きました

親父が話して聞かせてくれた話ではいつも他人の2倍は働き、2倍以上の稼ぎをしていたと云う自慢話ばかりでした

負けず嫌いな親父であり、そしてそれについて一緒に汗を流して働いたお袋だったのです

貯えができ社宅を出て、私が子供時代を過ごした中通りの家を買って移り住んだと聞いています  その家には現在長男賢策の家族が住んで本家を継ぎ、墓守をしております

後になってお袋から聞いた話ですがこの家は当時九州に住んでいたお袋の伯父さんが購入資金を出してくれたのだと陰で話をしていました  何時も自分で稼いで建てた家だと親父が言ってたのにお袋は釘を刺したかったのでしょう

住所は戦後の整理で 現在の 「 宇部市 昭和町 二丁目 」 に変更されるまでは

  宇部市 東区 中通り 6丁目

と呼ばれ、私が横須賀の防大に出発するまではこの呼名で、ここから宇部高に通い、大学に入るまでを過ごしたのです

当時の中通りは、ほぼ南北に走るマカダム造りの道幅が10mくらいはある真っ直ぐな、当時とすれば道幅のゆったりした道路で、その道に面した200坪くらいの敷地に建坪50坪くらいの一部2階建の木造瓦葺の家で今もそのままの姿を残しております

また、私が布団をかぶって芋虫スタイルで大学受験に熱中した昭和29年の春頃は親父がガラス張りのサボテン温室と池の一部を取り毀してそこに自分の日曜大工で赤土をこねて質蔵の土蔵を新しく建てると懸命になっていた頃のことを髣髴と想いだします この昭和29年の9月、私が防大1学年の2学期が始まったばかりの14日に親父は誰にもその真意を告げずに自宅の裏の小屋の中で自死したのです  なんとも何とも残念なことです

その後、家の前の道路はアスファルトに舗装されて、宇部曹達会社から吹き出る煤煙と共に空に舞う土煙は昔の話になって土煙も上がらないきれいな町並みになりました

通りに面した昔の玄関は今様の造りではなく、ちゃちな引き戸の玄関で当時のそこらの家は皆そんな感じの造りでした  高さが70cmくらいまで薄板張りで、それから上が40cm四方くらいの曇りガラスを入れたガラス戸でした 今だったら直ぐに泥棒に狙われるようなちゃちな4枚立てたの玄関でした   今 でいえば小屋の出入り口と云った感じでした

玄関には
   日高竹次寓
と墨書された木の標札がかけてあり、親父に聞くと 「ここはうらの仮の住まいだ。  だから寓居なのだ。」 と云っていました

ガラス戸を開けて入ると座敷に上がれる沓脱ぎ場と裏庭までそのまま歩いて行ける2m巾くらいの土間(セメント張り)がありました

後になってこの土間は畳みと板張りの座敷に改造され裏に玄関からそのまま通じる土間はなくなりました
家の南には裏へ通じる外回りの土間があるので木戸を開けて裏へ靴履きのまま行くことは可能です

建物の外観は一部はリホームされていますが今も昔のまま2階造りの部分の外壁一面を蔦の緑葉が覆っており春から秋にかけては青葉が繁げりクーリング効果を得てエコの働きをしてくれています  これも親父のアイデアで植えつけたものです

夏場には蔦の青葉を無数のブント(こがねむし)が食べに集まってきて困ったものでした  長竿でたたくとバタバタと多く落ちてきますが鶏も最初は食べていましたが余りの多さに食傷したのかすぐに見向きもしなくなったのです


親爺の一生は

昭和29年(1954)9月14日 に 68歳8ヶ月 で没するまでの短いながらも私からみれば充実した一生だったと思います
父の死は私が保安大学校の1学年の時でした

父は死してその戒名を

     『 閔堅院釋晃照不退居士 (もんけんいん しゃくこうしょう ふたいこじ) 』 

と命名されました

「不退居士」とは親父の生き様 (信じて退かないやり遂げる決意の男) を明確に表現した戒名だと亡き親爺も自分でよろこんでいる事だろうと私もうれしく思います








初孫の洋志君を抱いて 嬉しそうなお袋 (60歳)
[ 昭和29年4月 撮影 爺さん]

お袋の名前は [日高マツ] と云います

明治27年(1894) 01月18日 に 父:柘植彦市(K3/6/15〜S27/10/11)と母:ミキの長女として生まれました

生家は 島根県 邑智郡 井原村 天蔵寺原 の 『新出屋』 といいます
親父の生家 『槇の屋』 から200mくらいの距離にあり、私が戦争末期の S20,07,31  から S23,07,03 までの3年間疎開生活を送らせてもらった叔母の家です

昭和60年(1985)7月6日 には 91歳6ヶ月 の高齢になっても元気に新幹線での独り旅で宇部の自宅から愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンまで、私が初めて新築して自宅を持ったのを祝いに訪ねてくれました  そして、約1ヶ月間滞在し孫たちと楽しく過ごしていってくれました

ビールは苦いと云って口にしませんでしたがその代わり日本酒を美味しそうに適当に嗜み家内のこしらえたおかずは何んでも
 「食べてみよう」
と口に入れてみては 「美味しい」 と食べてくれました  お袋がよく口にした言葉は
 「わしゃあ 腹中まめだから」
でした

食べずぎらいをしないで何でも食べてみよう、そしてやってみようという好奇心と挑戦する心が旺盛なお袋でした  お袋は終生青春だったのです

年老いても丈夫で元気なお袋だった根源は若いときに親父について炭坑に入り、汗水流して人一倍の働きぶりで過ごした苦労で蓄積してきた体力と智力、そして十分な貯えと何でも 「食べてみよう」、「やってみよう」 の旺盛な好奇心の賜だろうと思います

宇部の風呂は裏庭にあり、風呂小屋として別棟にあり、ユテリティ小屋と連なって建ち、風呂おけは昔風の鐵釜の五右衛門風呂でした

中に敷く40cmくらいの丸い木の敷き板を足で沈めながら釜底に敷いて入浴するのです

私も子供の頃、沈める途中でポカッと浮いてきて底に素足が触れて熱い思いをしたことがしばしばです

また、風呂に入るには男は家でパンツ1枚になって行くのですが寒い冬は凍える思いの体験もしばしばでした

年とってから98歳で入院するまでのお袋には冬場の屋外を経由してのふろ場通いや五右衛門風呂に入浴するのはさぞや大変な苦痛だったろうと想像します

母が死んで間もなく廊下続きで風呂場に行けるようにリホームされ、冬場でも寒い思いをしなくて済むようになり今は昔に比べると天国です

風呂釜もその時に一緒に五右衛門風呂から今様のバスタブに改装されました

なぜお袋が生きてるうちにこの位のリフォームを済ませ、自分の家の風呂に楽に入ってゆっくりさせてあげられていたらと想うと口惜しい限りです

しかし そんな母も寄る年波には抗えず老衰がはじまり、平成4年(1992)2月2日 98歳の時に宇部市内の病院に入院しました

私は宇部を離れていたのでその経緯の詳細は不明ですが老衰とボケが少しずつ始まり世話しきれなくなって養護病院に入院させられたようです

気性が強く感激屋のお袋も入院してからは次第に鈍くなってきたようで、名古屋から3回 病院に見舞っての帰りの別れはこれまでの様な涙の別れではなくなってきたのです

丁度、植村花菜さんが唱う 「トイレの神様」 の歌詞に出て来る おばあちゃんの 「もうお帰り」 の言葉を想いだし涙がこぼれてきます

そして平成4年12月23日 計器飛行訓練で宇部空港に飛び、病院に見舞ったのが母との最後の別れになってしまったのです

その時は、私が名古屋から見舞いに帰って来たことさえも理解してくれていない様子で、鼻孔から管を差し込まれた状態で静かに眠ったままの状態でした
あの元気だったお袋もこうして少しずつ仏様に近づいていくのだなあと思いつつ 一言の言葉も交わせずに病室を後にしました

平成5年(1993)2月3日 最後の入院生活を始めて丁度1年経過した日 に満99歳1ヶ月の生涯を閉じ、明治、大正、昭和、平成 の激動の四世代を強く生きてくれました

お袋は享年が丁度百歳になる長寿を元気で気丈夫に生き抜きぬいた鉄の女とも云える 素晴らしい母の安らかな最後を迎えたのです

私にとって親父と共に誰よりも誇れるすばらしい 母女 でした

戒名は

     『 妙相院釋尼芳照大姉 (みょうそういん しゃくに ほうしょうだいし) 』 

と名付けて貰い、親父の待つ天国に向かって飛んで行きました 

お袋の葬儀が行われた平成5年2月6日は4月初旬の桜が満開を迎える頃の季節を思わせる暖かい快晴の日で母に相応しい送別の日でした

そして 今は亡き親父とお袋はいつも 天空の星となり千の風となって私らをしっかりと見守ってくれています   (H22.04.13 付記)


 ★ 亡き天国の母に献げたい2つの歌を聴いて下さい

    その一つは
     樋口了一氏が唱う 「手紙」 です。

    そしてもうひとつは
     植村花菜さんが唱う 「トイレの神様」 です。

     (☆この2曲は【爺の雑記帳】--『ためになる言葉』---「3 部」---[老 い] に収録してありますので聴いて下さい)



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親父、 お袋、 そして叔母(母の妹) そして私は島根県邑智郡井原村立国民小学校の同窓生です
私は 昭和20年7月国民学校4年の夏休みから井原村の叔母の家に空襲を避けて縁故疎開しました
そして 15日後の8月15日に終戦を迎えました
終戦後もそのまま昭和23年7月まで滞在を続け丸3年間叔母の家にお世話になったのです
昭和23年3月 井原村立井原小学校で卒業して中学校に進級しました
小学校の 「卒業名簿」 を探すと3人の名前を見付けて歴史の深さに驚きました

その「卒業名簿」を観ると 親爺の名前もお袋の名前もそして叔母の名前も次のように載っておりました

  親父は 明治29年 (1896) 3月に  (日清講和条約調印、三国干渉、台湾出兵などがあった年代)

  お袋は 明治37年 (1904) 3月に  (小学校教科書国定制、黄海海戦、遼陽大海戦などがあった年代)

  叔母は 明治45年 (1912) 3月に  (山陰線開通、警視庁特別高等科設置、辛亥革命などがあった年代)

  小生は 昭和23年 (1948) 3月に  (初の首長公選、第1回参議院議員選挙、日本国憲法公布などがあった年代)

同じ [村立井原小学校] を卒業した同窓生であり、先輩、後輩の間柄だったのです



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これまで私の人生で一番 お世話になった井原の 叔父さん と 叔母さん についても同様に時にふれ思いついた事を記述していきます



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付属として「自分が考えた事」なども時にふれ思いついた事をこのページの中に記述していきます







父・竹次 の想い出



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  【 わ が 家 の 想 い 出


私が保安大学校に入学するまで両親と暮らしていた家は、当時 宇部市東区中通り6丁目 と呼ばれた住所で、
道幅が約12mくらいの道のまん中には径が1mくらいの鉄製の蓋が嵌められたマンホールのある割と道幅が廣い南北に走るマカダム道路でした
わが家はその道に西向きに面した200坪くらいの敷地に50坪の中庸の木造家屋で2階部分には蔦がとりまき春から夏にかけては緑の葉っぱが生い茂って家を涼しくしてくれていました
夏場には生い茂った蔦の葉を食べにぶんと(カナブン)が無数に集まりおうじょうしていました
竹ざおで壁を敲くとばらばらと庭に落ちてくるのです  庭に放された3〜4羽の鶏も了いには見向きもしなかったのを憶えています


宇部市役所は市の中心部を南北に流れる真締川の傍に建っていますが、わが家はそこから南東約 2km の処に在ります
北方は約 50km 先に松下村塾のあった日本海の萩市まで陸地が続きます
一方、東方から南方をまわって西の方角には 1km から 2km 先は瀬戸内海 になります


最寄りの駅は山陽本線の小郡駅 (今の新山口駅) から西宇部駅 (現在の宇部駅) を繋ぐ宇部線の途中にある [宇部岬駅] で、わが家から南東約1kmの処にあります
今も古びた電車が1日23往復走っておりますが、もう今は無人駅になってるかもしれません  岬駅を南東に更に1km行くとその先は 草江の海岸 があり当時は海水浴のできるきれいな砂浜で夏の最高の遊び場でした
其処は今埋めたてられて、[山口宇部空港] になっております

宇部岬駅から [宇部曹達] や [宇部鐵工所] に燃料の石炭や資財を運ぶために 貨物列車専用の引き込み線 が通っていました
家から30mくらいしか離れていないので汽車が走る度に家が小振るいに震えておりました
空襲が激しくなった敗戦前の一時を除いて朝8時ごろと昼すぎと夕方の6時頃の3回決まったように煤混じりの黒煙を吐きながら子どもが走るくらいののろい速度でしきりに警笛を鳴らしながらシュッポシュッポとSLに牽かれた貨車が走っていました
今は線路の跡をなんとなく留めるだけになってしまいました


そして南方には 200m も行くと [東見初炭砿] の敷地が広がっており、その周囲にはぐるーっと全周が板塀で囲まれ、数ヶ所に衛門が配置されていてそこを通して貰わないと炭砿の敷地には入れません
会社の敷地だから当然の事と云えば当然ですが当時は戦時なのでスパイ対策、サボタージュ対策のために憲兵も各処に配置されていました
その敷地の中は大部分が砿員家族の社宅で10坪くらいの小さな社宅の6軒長家がびっしりと建ちならび、炊事場や便所、物干場は建家の間に造られ勿論みんなが協同で使用する造りでした
風呂は社宅の中の数個所に協同浴場がありみんなそこで汗を流していたのです
親爺夫婦も石洲井原村から野心を胸に宇部に出て来てから、わが家を外に買って出てくるまでは社宅の何処かで同じような生活をしていたのです
よく炭砿での生活の様子をお袋と一緒に苦労して頑張った話を聞かせてくれていましたがその当時もっと真面目に聞き留めておけばよかったと今は少し残念です
この炭砿も時代の流れと燃料競争に負けて昭和42年(1967)に閉山しました
この地方には石炭を産出する数多くの炭砿があり、日本で数少ない無煙炭を掘りだす炭砿もありました
地下の炭砿もあれば海底から掘りだす炭砿もありました
[東見初炭砿] は海底に広がる層から有煙炭を掘り出していました
だから会社の敷地は大部分が社宅関連の施設で、海岸沿いに海底に砿員を運んだり、掘りだした石炭や機材を運こぶための立て坑 (エレベーター) の矢倉がが数個所に建っていました
子どもだった自分等には危険ですし仕事の邪魔になるので近づく事はできませんでした

記憶に残っているのは昭和20年7月2日深夜のB-29編隊による宇部の街の大空襲です
私が通っていた見初小学校も跡形無く灰になってしまいました
その夜は焼夷弾投下による爆撃が主で、[東見初炭砿] も全てが燃え尽きてしまいました
岸壁の近くには掘りだしたばかりの石炭が運搬船での搬出を待って、いつも40mくらいの石炭の山に堆く積み上げられていました
そこに焼夷弾が撃ち込まれ火が点いてしまったのです
海岸近くですから今なら消すことも可能でしょうが、いくら海水が近くに無尽蔵にあっても注水できるポンプ車も無く、燃えつきるのをただ待つだけだったのです
夜になると燃える石炭の熱で空の雲がまっ赤に照らされ、燃えつきるまで7日以上も南の空がまっ赤に染まり続けていました


そして家の西方には1km先に [宇部曹達] (今のセントラル硝子) の正門があり、そこから約3kmくらい西の海に向かって敷地が広がっていました
其処には戦後ボルネオから復員してきた一回り上の痩せ細った次兄が戦前の在籍に続いて勤めておりました
曹達では灰分の多い粗悪な地元の石炭を安価で有効に利用するために大きな鐵塊と一緒に粉砕機に入れてガランガランと廻して粉砕しその粉炭を燃焼炉に吹き込んで燃やし煙突の先から全てを空に噴きだしていたのです
東風の吹く日は飛んで来ないからいいのですが西風が吹くとまともにわが家に降り掛かってきてセメントに似た白い燃え滓の灰がパラパラと降ってくるのです
そんな日には洗濯ものなどは外に干せないのです
そればかりか部屋の中にも遠慮無く吹き込むし、屋根樋にも堆積して排水が詰まるので定期的に掃除をして取り除かなければならないのです
今から思えば決して許されない公害の見本ですが当時は但愚痴って辛抱しているだけでした
当時の宇部は公害の街四日市にも引けをとらない程の 棄て流し、たれ流し が許し、ただ國の発展一途にまい進していたのです


またわが家の 北東3km には [モモイロペリカンの カッタ君] で全国に有名になった [常盤公園] があります
子どもの頃には常盤公園にもよく遊びに行きました
夜涼しくなって家から公園前を通って [床波駅] 前まで走ってマラソンの練習をしたこともあります


[この項の最後に親爺とお袋への報告として次の事を付記します]
私はこのわが家に石州へ疎開した3年間を除いて大学に入る昭和29年の春まで、丸15年半をこのわが家で過ごした事になります
保安大学に入って僅か半年後の昭和29年9月14日に親爺はその家と共に数軒の借家 や 株券、そして高額の財を多く残しながら独り未成年の自分の事を気づかいつつ急逝してしまいました
逝ってから50年経った平成6年(2004)4月16日 [遺産分割抛棄書] に捺印して親爺とお袋が残した遺産の全てを長兄が収得して終末となりました
おまけに結婚してから家内の勧めと許しのもとに毎年、夏と年末の最初は2万円、そして5万円、母が 養護病院 に入れられる直前まで最近は年2回10万円づつを仕送りしておりました
90歳で新幹線に乗って独りで春日井市のわが家を訪ねてくれた時、見せてくれた郵便局の通帳には送った金は全てを貯金して、一銭も引き出した形跡がないのです  聞くと 「克と祐子に遣ってくれ。 わしはもう買う物はないし御上がくれる年金で十分だから。」 と云っていました

結局、息を引きとるまで1銭も遣ってくれないままただ息子に感謝し、墓場の親爺に報告して喜んでいただけでした

お袋が死んで何年か後に宇部の兄貴から印鑑証明が要るので送ってくれと電話があり入手して送りましたが、多分この預金の払いもどしに必用だったのだろうと類推しています



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  【 付き合いなら家でも焼け


この言葉は親父の信条の一つだったのです

親父は「勿体ない」、「ムダにするな」、「罰があたる」 が口癖で自分に厳しいのは勿論、家族にも同様の事を要求し教えてくれました

特に食べるものについては厳しく、一粒のご飯も粗末にすることは決して許してくれませんでした

 「ご飯粒ひとつぶでもそれを造るのにお百姓さんが汗水流して1年間働いた結果出来上がったものをわしらは食べさせて貰っておるのだ
  だから決して粗末に扱ってはならん  このご飯粒一つのお陰でみんなが生きていけるのだ」

と教えられ、下に落ちた一粒のご飯でも捨てる事は許さず、落とした者が自分で拾って食べさせられました
その結果必然的に落とさないように注意して食べるように躾けられていったのです

また親父はご飯を食べ終わるとお椀にお茶を注いで漬け物の残りでお椀の内側を洗い落とし飲み干しておりました

そして刺身皿に残った醤油も最後には必ずお茶で洗ってご飯と一緒に飲み干しておりました

醤油も味噌も米や大豆など大切な穀物を材料に時間と労力をかけて造りあげられた物だから粗末にしてはいけないと教えていました

井原に疎開していた間、叔父や叔母と一緒に米を作り、大豆を収穫し、醤油や味噌も自前で造っているのを手伝いながら体験し、また戦後の食糧難も経験してきたので親父の言う事、やることが素直に受け入れられていたのです

このように実際を通して教え込まれた 「勿体ない」、「ムダにするな」、「罰があたる」 の信条と一見相反するようですが

 『 付き合いなら家でも焼け 』

が親父の信条の真髄で夕食の時などよく話しておりました

またこの言葉と関連して

 『 金は活かして遣え 』

もよく教えてくれた言葉です

親父を思い出すとき何時も親父の元気な顔と一緒に浮かんでくる親父の大切な教えだったのです

親父が事ある毎に私に云って聞かせたこの崇高な言葉・教訓は他の2人の兄弟には云って聞かせ、習わせた跡が見えないのは今となってはちょっと残念な事ですが



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  【 負ける喧嘩は 始めからするな


「アメリカと戦争したら負けるに決まってる
  これほどまでに国力の違う国に戦争をしかけるほど馬鹿なことはない    負ける喧嘩ははじめからしないことだ
    始めてしまった以上は1日も早く止めることだ」

大東亜戦争(第2次大戦)は昭和16年12月8日払暁、日米開戦に最後まで反対してきた山本五十六大将指揮の連合艦隊に依る真珠湾攻撃で始まりました
その次の年の昭和17年4月に私は新調の黒いランドセルを背負って母について [見初国民小学校] に入学しました

開戦当初のその頃は戦況も戦勝、戦勝の凱歌が連日世間を賑わし、[大本営発表] の進軍ラッパを快い気持ちで誰もが聞いておりました

その頃から親父は

 「この貧しい日本が富裕なアメリカと戦争して勝てる訳がない」

 「間違いの戦争を始めた以上は頭を下げてでも、1日も早く止めにすることだ」
   それが国家の指導者なのだ。 指導者の責任だ。
    陛下の真心が理解できない者が国家を導いてはならない
     9000万の国民が不幸になり、先祖に申し訳がない」

と口癖おようにせごしの小魚を酒の肴にちびりちびとやりながら母と私を相手に持論を聞かせておりました

そんな親父も決して反戦活動などをする左翼思想家ではなく、その反対に一般に云うところの筋金入りの国粋主義者でした

陸軍の憲兵やサーベルを吊った警察の威力で統制された当時の国家・お上に対しても決して無知・盲従するような事をしなかったのです

日本には 「ながいものには巻かれろ」 と云う諺がありますが、親父にはそれらしい素振りを見せた事はなく、いつも気骨を感じさせておりました

近所の有志が集まって付和雷同的な発言にも耳を貸して居りましたが、当時の社会では個人の発言が活かされる事はないことを十分に承知し尽くしていたのだと思います

終戦間際に受けた宇部大空襲の時などでも町内会長として率先して 防空活動 の先頭に立って活躍し、私ら2人をあげ(郊外の野原)に避難させて自分は降りかかる焼夷弾の中で独り居残り町内会から一軒の焼失も出さない活躍をしたのです  そんな父を誇りに思っています

今になって親父を想い出すとき、誰もそんなことを承知している人が生存していないのですが自分の心の中でそんな素晴らしい親父が生きている事が息子として自分の誇りです

「こんな誇りを残してくれた親父。  親父、 本当にありがとう」



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  【 両手の指10本の指紋


保安大學入校前 のある日、縁側で池の鯉を眺めながらぼんやり、のんびり していると 隣に親父がやってきて

  『 伴、  ちょっとこれを見ろ、  うらの指は左右10本の指すべての指紋がきれいに巻いているんだ  そうだろう 』

と云って両手を差し出し [見てみろ] と云うのです

井原からお袋と2人で宇部に出てきて、一旗揚げるために [岬炭坑] で一番稼ぎは多いが一番苦しい仕事の掘先の仕事を人の倍の量をこなしながら石炭掘りをして来た人の手には見えない滑らかできれいな手の平をしていたのです

そして云われてよくよく見ると本当に左右10本の手の指全ての指紋がきれいに円形に巻いているのです

それも渦巻きではなく年輪の様にきれいに同心円を描いて巻いているのです

どの指紋も途中で切れたり流れたりしていないのです   10本が10本みなきれいに巻いているのです

  『 あの太閤さんも10本の指全てがきれいに巻いていたそうだ 』

と自慢げに話して呉れたのです

早速、自分の指を調べてみると半分以上の指が巻いていないのです

そんな指紋の話も今は私の記憶以外には何処にも残っていない事実の話です



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  【 王仁の千字本


日本に漢字が伝来したのは応神天皇の頃 (285年) 百済から召された学者の [王仁(ワニ)] が論語10巻と千字本1巻を天皇に献上したのが始まりとされています

[千字本] は4字ずつで1句をなす韻文が250句、全部で1000文字から成っており、1字も重複していないのです

この [千字本] によって日本に漢字が初めて伝えられたと云われています

気心がついた頃から親父は [千字本] を手本にして漢字の意味や楷書、行書、草書の筆順などを毛筆や万年筆で毎日のように机に向かって練習しておりました

親父は69歳で死ぬまで止めることなく練習・勉強を続けておりました

「生涯が学習だ」を続けた親父でした


そして千字本が [王仁] によって日本に持ち込まれた時、誤って日本に伝えられた文字が2つあると私に教えてくれたのです

この事は [千字本] を学んでいるときに親父自身で見つけ出したのか、或いは何か他の資料で知ったのか定かではありませんが、それは

    [とまる]


    [さらす]

と云う2つの漢字、すなわち [泊] と [晒] です

この2つの漢字は会意文字 から判断すると次の事は明白です

  [泊] は [水] で物を [白] くする行為は [あらう] または [さらす] と云うことです

そして

  [晒] は [日] が [西] に傾くと [夕暮れ]、 [夜] を意味し、宿舎に入ること 即ち [とまる] ことです

この2つの漢字は文字に含まれる意味と 使われている意味が相反しているのです

本来ならば

  [泊 (ト) まる ] は  [ 晒まる ]  と表記され、

  [晒 (サラ) す] は  [ 泊す ]   と表記されていると

漢字を見てその意味が自ずと通じることになるのではないかと思います


そして私の記憶には何時も家業用の机に向かって万年筆で、時には毛筆で千字本の左から右に毛筆文字の楷書、行書、草書 を手本にして筆順やくずし方などを熱心に独り勉強している親父の姿が思い出せれるのです

だから学校を出ていない親父でも魚の名前や樹木の名前を漢字で書かせると誰にも負けない能力を持っていたのです



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  【 漢字の書き出し


高校時代、親父の発案で兄らを交えて父子4人で漢字の書き出し競争をしたことがありました

例えば 「さかなへん」 の付く漢字を知ってるだけ列記し、ふりがなを付けて発表するのです

勿論、その漢字は当用漢字とかではなく本来の漢字全てが対象ですから、本来魚の数だけ存在し、辞書にも載っているのです

書き出した漢字は辞書と照らして正しいふりがな(魚の名前)が付いて初めて正解となるのです

「さかなへん」 の右側に勝手な [つくり] を付けてもその漢字は実在することがありますが当てすっぽではその読み(魚の名前)が不明なので不合格です

そんなゲームをやると兄弟の3人は大差のない結果でしたが親父だけは倍以上の漢字を次々に書き出してしまい、その羅列された全ての漢字に正しいフリガナを付けて日頃よく耳にする魚の名前を書いていたのです

[サンズイ] の付く漢字、[木偏] の付く漢字、[シンニュウ] の付く漢字、[獣偏] の付く漢字といろんな偏や構えの付く漢字を競うのですが何時も親父の書き上げる漢字には叶うことはありませんでした

親父はいつも千字本を坐右に置いて勉強を続けていただけあり漢字の知識でも叶う者はおりませんでした

身内の中には自分の能力を周りの人の評価以上の自己採点評価を憚らず公言するのもいますが恥ずかしい思いです

自分の自慢は他人がするもので身内の者がしたり、ましてや自分自身が自慢発言をのは頂けません



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  【 壊す時を 考えて作れ


親父は手先が器用な人でした

今で云う日曜大工 をよくやっておりました   その時、1本の釘を打ち付けるにも側で観ている私に何時もこのことを話してくれていました

即ち 物を造るときはそれが

  『 壊れたとき、修理し易いように考えて作れ 』

  『 不要になったとき、ほどき易いように考えて作れ 』

  『 材料を再利用し易いように考えて作れ 』

米軍の本土空襲が激しくなり敗戦の色が濃くなってきた頃、「住宅の天井板をすべて取り払うように」 との軍の命令が出されたのです

理由は天井裏に焼夷弾が引っかかって火災が広がるからと云うことでした

今では笑い話のレベルですが当時、本土防衛の責任を担った軍部の判断力はこの程度だったのです

5mmに満たない薄い杉板に高速で落果してくるあの重い焼夷弾が引っかかって留まることなどあり得ないことです

しかし、軍部はそんな幼稚な結論を自国民に命じ、命じられた国民は憲兵隊の権力の前に自分の財産を自らの手で壊してしまうことを余儀なくされていたのです

思い返すとこんなことが命令されたのは多分昭和19年の秋頃ではなかったかと思います

親父は私と母を手伝わせて約30畳分くらいはある1階と2階の天井板を戦争が終わったらまた張り直すことを考えて一枚一枚丁寧に外し、桟(さん)材 もきれいに外して裏の小屋に仕舞い込んでおいたのです

そして戦後いち早く張り直し作業を始めたのは勿論我が家でした

ただ親父に手落ち、失敗だったことは元の位置にそのまま配置できず、桟で隠れて日焼けしていない桟の跡があちこちに出てしまい下から見ると永年のすすで黒く汚れた板に桟の跡だけが白く目立って見にくい模様ができたことです

天井裏の方から釘打ちされ、その上そこには永年 宇部曹達 から吐き出された工場煤煙が積もり積もって、朽ちかけた薄い杉板を割れないように再使用を考えて剥いでいくにはそれこそ細心の注意と根気が必要だったのです

親父は一人でそれをやってのけたのです   次に使う時のことを考えて計画的にほどいていったのです  素晴らしい親父でした

しかし在った位置を記録しておくことは几帳面だった親父にしても当時の戦況の下では多分無理だったのでしょう

親父が言いたかったこと、教えたかったことは

 『 常に 次に行うことを 事前に十分考えて行動しろ 』

と云うこただったのです

今想うと親父の考えは環境が破壊され始めた今になって通用しはじめた [勿体ない精神]、 [環境重視の精神] を先取りしていたのです

50年前に逝った親父の発想の素晴らしさにただ敬服するばかりで親父は私の誇りです



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  【 持ち帰ってくれる料理

戦後になってからの親父は町内会の会長や民生委員など公の仕事に再々就いて頑張っていました

地元の戦後復興や再建に、そして復員軍人や帰国者などの支援に私業の質屋の仕事と併行して元氣に動きまわる毎日でした

そんな会合の寄合でお酒や料理のご馳走が出ることが多いのですがそんな時にお酒は勧められてよく飲んでいましたが、
あまり食べないで出された料理の多くを残して折り箱に詰めてもらって持ち帰ってくれるのです

親父はお酒はよく飲んでいましたがそんな時でも酒の肴を食べるくらいで他の物はあまり食べないのです   次兄の懿雄も全くそうでした

だからそんな寄合があって親父が出掛けて行くと
 『 帰ったよー 』
と玄関に帰ってくるまでの時間が待ち遠しく何時もソワソワしながらお土産を楽しみに待っていたのをこの歳になった今でも懐かしく想いだします

最近は衛生上の理由で食べ物を持ち帰りを許されませんが当時はそんな制約も慣習もなく、また衛生意識も薄かったので
出された物を食べ残して棄てられるのは勿体ないから何かに詰めてもらって持ち帰ってくれるのです

今と比べると食糧事情が各段に悪かった時代ですから今は死語になってしまった 「盆と正月が一緒に来たような」 そんなご馳走に有り付けるのですから
親父の帰宅が今か今かと待ち遠しかったのを懐かしく想いだします

持ち帰って呉れる折り箱の中味が何だろうかと想像するのも楽しみでしたがそれが何であってもご馳走で兎に角嬉しかったものです

赤飯やきれいに色づけした寒天や宇部饅頭、時には砂糖菓子のらくがんが入っていてこんな甘いお菓子だったりすると最高に嬉しかったものです

今でも昔のあの時の状景をありありと思いうかべます



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  【 並んで 立ち小便


小学校に入った頃の想い出話しです

裏庭の小屋の側にはあまり大きくはないイチジクの木がありました

毎年美味しい実を実らせ、太陽の恵みを受けてうまく熟した時は親父がもいでくれて 「食べてみい」 と手渡してくれたものでした

ミルクのように白いイチジクの果汁が口の縁につくと、かぶれてしまい痒い思いをしたことを憶えています

その近くで小屋の陰に50cm四角くらいの大きさで深さ100cm位はあったと思いますが、煉瓦をセメントで固めた埋め込みの壺のような容器がありました
それは何かと云うと男性用の小便器で親父の自作です

ある時、親父と並んで小便をしたときのことです

一緒に始めた小便を私は既に終わってしまっているのに親父は尚もチョロチョロと小刻みに出ているのです

それをみて まだかよ、遅いな と云う顔で見ていると

 『 伴も 年をとったら うら(自分)のように長ごう かかるようになるから 』

と気まずそうに話しかけてくれたのを覚えています

親父は当時50歳台後半で男性特有の生理的現象である前立腺の肥大が起こっていたのだと思います

その当時の自分には深い理由は理解できないままでしたが親父の年齢を迎えた今の私には親父が言ってた通りの 「出にくい、終わりにくい」 の症状が発生しているのです



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  【 救 心


大戦中から[救心]と云う10cm×7cm×2cmくらいの大きさの白っぽい紙の箱に入り、箱の表には真ん中に漢字で[救心]と横に書かれ、中の薬は白っぽい防水の紙袋に2〜3ミリの黒い丸薬が入っていました。

ぐい呑みの坏に1杯分くらいの量の丸くて黒い光沢のない不ぞろいの丸薬だったです。

今でも同じ薬状で同じ名前で売られているかもしりません。

これは心臓の薬で、成分は Fe(鐵) だったように聞いていました。

親父はいつもそれを常備薬として服用し、時々岬通りの「赤旗薬局」まで歩いて行って買ってきており、時には親父に云われて自分が買いに行った事もあります。

戦争中の子供の頃から保安大での初めての夏休みに昭和29(1954)年に帰省して親父との最後になったときも全く普段の生活では気付かないくらいに元気そうだったのですが私の知ってる親父は適当にこれを愛用(否、服用)していました。

健康志向の親父だったので普通の人間なら飲まないで済ますくらいの体調だったかもしりませんが、町内会の寄り合いに歩いて行ったりする時など息切れがしたり、動悸が速くなったりしていたのかもしりません。

また、2階への階段を上るのに途中で息切れが起きていたのかもしりません。

いずれにしても私ら家族が心配してあげるような状態ではなかったように記憶しています。

親父にとっては放っておけない自分の肉体的な弱点だったのだと想います。

元気でいつも自然に学び、社会に学び、歴史を研究し、いつも向学心の強い親父の元気な姿を想いだすときにこの[救心]と云う薬が想いだされます。(親父が逝って56年余が経過 2010,10,08)



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  【 坪倉先生


大東亜戦争中の 昭和17(1942)年4月に私は 「宇部市立見初国民小学校」 に入学しました
親に買って貰った黒のランドセル(毀れた後で馬糞紙で造られていたのを憶えています)を背負い、黒の学生帽を被り、浅裏(上履き)を仕舞うお袋手縫いの白の布袋をもってお袋について歩いて行ったのを憶えています

[日] の字の形をした木造2階建ての大きな校舎でした
広い校庭の片隅には薪を背負った [二宮尊徳のた銅像] や昭和天皇皇后両陛下の [ご真影] と [教育勅語] が格納された [奉安殿] がありました
この2つは当時どこの学校にもありました
そして学校の、いや日本国家の行事の日には [奉安殿] から必ず [ご真影] と [教育勅語] が校長先生に依り式場(講堂)に運ばれ生徒一同が最敬礼をして拝聴したのを懐かしく回想します

小学校1年の担任の先生は当時40歳くらいだったろうと想像しますが [坪倉先生] と云う女の先生で、1年生の担任の中で最先任の先生でした

学校の生活にも大分慣れてきた夏の終わり頃だったと思います

或る生徒の机の右上に白チョークで ○ が書いてあるのです

何の評価だったか勿論記憶にありません

しかし、自分の机にはそのマル印が付いていなかったのだろうと思います

一緒に騒いでいたクラスの仲間数人と履いていた [あさうら] のゴム底でチョークのマルをたたいて回ったのです
当然、その白マルは薄らいで消える状態です

私らのいたずらを見ていた女の子かだれかが教員室に報告に行ったのだろうと思います

間もなくクラス担任の [坪倉先生] が入ってこられ、誰がしたのだと云うことになり、私を含めて男子生徒3人が先生に捕まってしまったのです

当時の授業は午前中で終わり、他の生徒はみんな下校して行ったのにこの3人だけは教室の前の左の方にある先生の机の側に命じられたまま立たされたのです

誰も見ていないのでときどき私語をしたり、つつきあったりして3人で立っていると暫くして先生が帰って来られ、

 『 これからみんなは家に帰ってご飯を食べて、1時までにまた学校に来なさい

   そしてまたここに立っていなさい 』

と命じられたのです

約2km離れた我が家への道を急いで帰り、[あさうら] で机の上のマルをたたいて回り、先生に捕まって罰をくったこと、ご飯を食べたらまた罰の続きをやりに学校に行かなければならないことを親父に告げると
しでかした過ちに対してあまり叱られた記憶は残っていませんが、親爺が云ったことは学校に帰ったら先生に

 『 済みませんでした

   もう2度としませんから許して下さい 』

と云って 「正直に過ちを謝れ。」   
悪いことをして先生やみんなに迷惑をかけたのだから素直に謝って来いと食卓に向かって正座し、親父と正対して厳しい注意を受けました

暑い午後でした

食事を終わると大急ぎで学校に帰り、1時のベルが鳴るとまた午前と同じ位置に3人で並んで立っておりました

その間も親父が教えてくれた謝りの言葉を心のなかで復唱し、練習しながら間違えないで言えるように準備していたのです

暫くすると [坪倉先生] がいつも持ち歩いていた書類を手にして入って来られ、先生は机について
3人は一人ずつ順番に先生の前に呼ばれて注意を受けることになったのです

先生の前に行って正対した時、すごく ドキドキ していた事をよく覚えています

ドキドキ しながらも先生に一礼 したあと親父が教えてくれた謝りの言葉を勇気を出して言葉にして言ったのです

  『 センセイ スミマセンデシタ   ボクガ ワルカッタデス   ニドトシマセンカラ センセイ ユルシテクダサイ 』

と詰まりながらも何とか最後まで云えたのです

すると先生は

  『 そうか 口先ばかり言ってもだめだ 』

と一言云われたのです

親爺から聞いて自分が予期していた流れと全く違う言葉が先生から還ってきたのです

その後どの様な注意を受けて3人が許されて学校を後にしたかは憶えていません

帰って親父にその時の様子を説明しながら

  『 お父さんに教えて貰ったように謝ったら先生に謝ったら  [口先ばかりで言ってもだめだ] と言わた。 』

と云うと 「そうか。」 と親父は不満そうに頷いていただけでした

その後これについて親父から叱られたり注意された事はありませんでした


その頃から戦況はますます激しくなり、昭和20年7月2日の夜、宇部市は米軍の大空襲があって一夜にして見初小学校も全焼して焼け野原になり、私は井原に疎開して3年間井原で過ごし、中学1年の時に宇部に帰って来て神原中学、宇部高校と進み、昭和29年春横須賀の保安大學校に入学したのです

大學の最初の夏休みに帰宅すると親父から

  『 先日 お前の1年の時の受け持ちだった [坪倉先生] がひょっこり玄関に訪ねて来られ

   「昔の受け持ち生徒の名簿を頼りに家庭を訪問 して保険の勧誘をしております」

    是非保険に一口でも入って下さい 』

と云って来られたと云うのです

親父は  [坪倉先生]  の一件を想いだして

  『 普通なら保険の一口ぐらいなら直ぐにでも入りますが、

    貴女にだけは一切入る気持ちにはなりませんのでお引き取り下さい 』

と云って断ったと話して呉れました

親父にとってはあの 「口先ばかりで言ってもだめだ。」 の一言が自分の胸に刺さったまま10年以上も残っていたのだと思います

親父の子を思う気持ちがうれしくて複雑な気持ちになった事を覚えています

あれからもう50年以上も経ってしまい、その親爺も天国で想いだしていま笑っているかもしれません



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  【 夜空を眺めて夕涼み

我が家では戦時中から定刻の4時半になると親父がまず食卓に腰を降ろし酒の肴に箸をつけて飲み始めるのが仕来りでした

勿論警報がでたりしたときは別ですが明るいうちから決まったようにこの時間に飲み始めるのでした

その時間に間に合うようにお袋は買い物を済ませて夕食の支度をしていました

我が家の商売は質屋で日頃は客の出入りが多忙と云うことはなく、大抵の日は落ち着いて食事が出来ていました

ただ月末だけはお客の出入りも多くなり、月末の勘定をする親父は忙しい夜になります

特に大晦日の夜は1年12ヶ月のしなければならないので大変忙しく帳簿に整理をそろばんを使いながらお金の勘定を交えてやってる姿は真剣そのものでした

月末、年末の勘定は銀行と同じように出納のつじつまが1銭違わず合って初めて月が越せ、年がこせるのです

だから毎年大晦日の夜は8畳の神手に座卓をだしてその上にお袋が精出して作ったおせち料理を広げそれを肴にお神酒を飲みながら頻繁に訪ねてくるお客の相手も気忙しくやりながら遅くまで机でそろばんをはじいたりをしながら勘定を進めていました

全てが終わるのは深夜12時近くになることもありました

お袋の作るおせち料理にはぶりの刺身、数の子、コンニャクの白韲え、たたき牛蒡の胡麻漬け、昆布巻き、クラゲの雲丹合え、黒豆、蕪の鱠、などだったと思います

普通はお袋が一人で勝手仕事を済ませておりましたが、特別な料理をするときには親父も腰をあげて台所に降りてきて腕を振るっていました

そんな時は私をそばに呼んで手伝わせてくれたりして一緒に造ったりしました

山芋をすってとろろ汁をこしらえる時などは傍に寄ってすり鉢を抑える手伝いをしたり、途中ですりこ木で擦りまわすのをやらせてもらっていました

また、宇部岬駅から宇部曹達へ石炭を運んだり製品の曹達を搬出したりする国鉄の引込み線が中通りの一つ北の岬通りを横切っていました

その踏切の横に小平と云う魚屋がありました  魚屋の東隣りには昭映館と云う映画館がありました

その2階には専門の看板絵描き職人さんが主演女優さんの顔などと一緒に映画の題名を大きく描いた看板がかかっていたのを思い出します
 (当時は小学校の帰りに途中の看板屋に立ち寄って上手に描いていく絵描きさんを観ていましたが今はどこでも見られないことです)

娯楽の少ない戦中戦後には昭映館は繁盛していましたが昭和40年頃には斜用となり消えてしまいました

魚屋も私と同級の跡取りの時代になって魚屋を辞めてタクシー屋に店替えをしました

5月5日は宇部の新川祭りでしたがその頃を過ぎるとトラ河豚が安く手に入るようになり、思い立つと親父はやおら小平に出向いて白子持ちの40cmくらいの河豚を買ってくるのです

器用な親父はどこかの魚屋の店先で捌いているのをじっと見つめて勉強したのだと思いますが、買ってきた河豚を上手に捌いてみんなに食べさせてくれるのです

当時は調理免許の決まりもなく自分の責任で料理して食べていたのです

だから肝を食べないと河豚の本当の旨さは解らないと親父にしきりと勧めていた斜め向かいの老夫婦は安心があったのか手抜かりがあったのか河豚の肝の毒に中って2人とも亡くなりました

河豚のことを テッポウ と呼ぶのは「下手な鉄砲も数撃てばあたる」に由来するそうですが親父にいつも肝のおいしさを勧めていたベテランもたまには河豚の毒に中ることがあるのです

親父が河豚を捌くのを観ていて今も憶えていることは肝はもちろんのこと他の内臓なども傷つけて切り身に血液が付着することがないように慎重にやっていました

切った身は桶の中に水道の水をザーザーと流しながらねんごろに一つ一つ洗濯するようにもみ洗いして血らしいものが残っていないように洗い流していました

肝は傷を付けないように切り離して新聞紙に包んで犬や猫が間違って食べたりしないように深く穴を掘ってその中に埋め込み、上に掘り返されないように重石を置いて処分していました

それを観ていて河豚の肝には食べたら犬や猫も死んでしまう程の猛毒があるのだろうと察していました

河豚の身は洗い過ぎと思えるくらいるくらい流し水でもみ洗いして血の成分が残らないようにしっかり洗いながしていました

洗濯機が世に出回ると魚屋ではこれを使って水洗いしてるのを見たことがあり、なるほどと感心しましたが今はどうしているのでしょうか

河豚料理で一番美味しい白子は優しく軽く洗うだけで鍋に入れていました

兎に角河豚の白子の美味しさは最高でした

このような河豚の料理の時には親父のそばに立ってどんなふうに処理してるのか手元を懸命に観つめていたのを憶えています

お蔭で河豚料理の美味しさは当時から60年経った今も懐かしい思い出です
あの時の味が懐かしく買いやすい値になった時に大きな期待をもって食べてみましたが親父が食べさせてくれた河豚の味は再現しませんでした
あの味は自分に最高に贅沢な河豚の味を残してくれています

河豚は皮、腸、ひれ など各部位によっていろんな独特の呼び方があった事も憶えています

今は家庭で勝手にさばくことはできませんがそうでなければ親父のように自分で捌いてみたい好奇心は十分にあります


いつの間にか本筋から離れ親父の思い出に熱中してしまいましたが本来の夜空を眺めて夕涼みの話に戻ります

親父の座る席に酒の肴が並ぶと親父がおもむろに腰を下ろして刺身に箸をつけて飲み始めるのです

瀬戸内の宇部は活きのよい魚が豊富で魚屋にはいつも活きのよい魚が並んでいました

手押し車に積んでおばあさんが売りにくることもよくありました

親父の好きな酒の肴はキスの背ごし料理でした

親父が飲み始めるとお袋と私も食卓に着きます

親父の隣りに座ると酔い心地よくなった親父は決まったように
 「伴や うらはなー」
から話が始まり、子供時代の爺さんのタタラの話や井原時代の事、そして宇部に出てきてお袋と一緒に炭鉱で働いていた頃の様子などを話して聞かせくれていました

こども時代に諄いほどいつも聞かされたことが60年経った今も少しは残っています

4時半から始まった夕食は6時前頃には終わり夏の暑い時にはうちはで蚊を払いながら夕涼みに移るのです

玄関前の通りに夕涼み台を出してその周りに水道のホースから散水をします
甲子園の夏の大会で球場の散水を見るとこれを思い出します

涼み台は親父が日曜大工の手仕事で作ったものでした
1畳くらいの大きさで上には藺草の茣蓙を打ち付けていました

日が暮れて暗くなると門灯の灯りで近所の人がウチワ片手に三々五々と寄ってきて今日の大本営発表の戦況の推移や出征している家族の事や各地の戦況など熱心に話し合っていました

内地の現状から推してラジヲで発表される戦況にはみんなが不審を抱いており、日本は極めて不利な状況にあることは誰もが推測しながら異口同音に相槌を打ちながら小声で話し合って空襲のない夜の一時を過ごしていました

子供の自分には戦争の話はあまり乗れないので縁台に寝そべって真上の夜空をずっと見つめ流れ星を待ったりして時間をすごしていました

昼間、本で星座の位置を覚えてきて夜空を見上げながら照合するのです

当時は燃料に石炭ばかりを使い、ばい煙は何の濾過もしないで外に放出していたのですが石油がなく使わないので空気が汚されずその頃の夜空はキレイだったです
当時のような美しい夜空はその後ロケット打ち上げ要務で訪ねた種子島の真夜中の空や趣味で登った富士山頂で寒さに震えながら観た黎明の星空と同じ美しさだったのです

寝そべって見上げる夜空には時々流れ星が目に入り、太い天の川が見えていました

ウチワで蚊を払いながら無心に見つめていたのを懐かしく鮮明に回想しております

今の市街ではあんなに澄み切った夜空に天の川を見つけ、流れ星が視界に飛び込んできたり、全天いっぱいに広がる無数の星が観られる夜空は期待できません

今では山村に行くか科学館のプラネタリウムに行くかしないと観られない天の空が日本中どこでも自由に見ることができたのです

昭和44年に名航に入った頃の名古屋空港では風の弱い日には着陸するために高度1,500フィートでイニシャルに進入してきて滑走路の直上に来るまでR/Wが視認できないような事が多かったのですが退職する頃は随分と改善されていました

エアコンも電気冷蔵庫もないあの頃の暑い夏の夜、縁台の近所の顔見知りの人が集まっての夕涼みのひと時は近所の団らんと懇親の機会で安らぎや癒しを感じていたのを思い出します

そんな大人も子供も集ってたわいもない話をしながら寝る時間までの暑い夜を過ごす風習は当時の日本の貴重な文化です

こんな社会には今のような親がわが子を殺したり子が親を押し入れにしまってミイラにしてしまうような社会は生まれて来るはずもないのです

全国にあったこんな素朴な風習は不便さを我慢し切磋琢磨しながら生きていく日本の礎だったのです

もう一度縁台に寝そべって上を見上げれば大きく広がる天の川があり、時折突然の流れ星が視界にとびこんでくるそんなのどかな風景の中にわが身を置いてみたいものです



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  【 なむあみだぶつ


連日のように [警戒警報]、[空襲警報] が発令され町中にサイレンが鳴り響いていた戦時末期の事です

朝、学校に行っても平穏な日は 鎌(カマ) を持って あげ に行き、軍馬用の馬草刈りをしたり、道端の舗道に溜まって乾いた馬糞(当時は馬が主要な動力源でした)をかき集めて袋に詰めて学校に持ち帰ったりするのが毎日の日課でした  これは畑の肥料にしていたと思います

そしていろんな記念日などは勿論のこと、毎月8日には [大詔奉戴日] の儀式が講堂 (今の体育館のような構造) であり、その後でみんなが隊伍を組んで [水神様] に戦勝祈願のお参りをしておりました

戦争の末期になると日に日に食糧事情が悪くなり弁当を持参できない生徒も多く、中には竹筒におかゆを入れて来る子もおりました

そして勤労や訓練に出て教室をあけるときは弁当を盗られないように必ず先生が来て教室に鍵をかけて出かけておりました

[警戒警報] が発令されると生徒は真っ直ぐに下校することになっており、終戦まぎわになると朝、登校しても早やばやと下校することが多くなり最初から来ない生徒も増えてきました

見初小学校では学校からの集団疎開は実施されなかったのですが私のように個人的に伝手を頼って田舎に疎開して行く生徒が次第に増えていき、クラスの生徒数は日に日に少なくなっていきました

小学校も含めて宇部市のほとんどが焼きつくされてしまった昭和20年7月2日夜の [宇部大空襲] があった少し前の5月頃だったと思います

昼過ぎに親父と2人で家にいたときです

聞き慣れた いやな抑揚のある [空襲警報] のサイレンがまた鳴り響いたのです

防空演習で十分に訓練されていた通り、玄関前の防空壕に急いで入ろうと玄関を飛び出そうとしたその時でした

向かいの家の屋根の上を、宇部曹達の方からこちらを目掛けて降下してくる敵の飛行機を正面に見たのです

それは正面から迫ってくる飛行機の大きな恐ろしい顔だったのです

定かではないが爆撃機の爆音も耳に聞こえていたような気がします

当時は日本の空をさも遊覧飛行でもするかのように米軍機は自由気ままに飛びまわってなんでもかんでも撃ちまくって攻撃していたのです
逆にわれわれは自由気ままに撃ちまくられていたのです

そのまま防空壕に向かって走って行っていたら、多分親父と一緒に機銃掃射を受けて敵機の餌食になっていたことだろう思います

親父が瞬間的に私を引き戻しとっさに右側の戸口の陰に私に覆い被さるようにしてくれて伏せさせたのです

親父の腹の下で一心に神様、仏様のお助けを願ってお祈りしました

 『南無阿弥陀仏  なむあみだぶつ  ナムアミダブツ』

と どうか助けて下さい  と一心に祈りました

声に出して祈りました  大きな声を出すと敵のパイロットに聞かれて仕舞いそうなので声を抑え神さまには届くように祈り続けました

あのときの情景は今でもはっきりと記憶しております

機銃掃射は受けずに無事にその時が過ぎ去った事は事実です


何年か経ったある時  2人の兄たちも戦地から帰国しておりました

宇部の街が空襲で一夜のうちに焼け野原になった大空襲の話になった時、このときの事を親父がその情景を説明しながら

 『 伴が うらの腹の下で
    南無阿弥陀仏  なむあみだぶつ  ナムアミダブツ
      と必死で拝んでいたんだ

    あの時は うらも本当に恐ろしかった
        伴の祈りは必死だった  本当の神頼みだったよ 』

と話すのを側で聞いていてなんとも少し恥ずかしい気持ちでした   しかしあの時の自分は殺されたくない真剣な気持ちだった事は事実です

戦争は愚の骨頂です
日本に何時までも今の平和が続くように 国防に生涯を献げてきました
みんながいつまでも平和に暮らせるように必用な国防を施し、核装備も含めて防衛力の拡充の努めるべきだと考えます



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  【 大久保彦左衛門


高校時代に親父が

  『 伴 うらはな みなから
     [大久保彦左衛門]  と
        呼ばれているんだ 』

と云った事があります

親父は町内会長や民生委員を長い間しており、人からいろんな事を聞かれたり相談を受けるのですが

 『 ○ ○ があったのは何日だったか 』

 『 ○ ○ はどういう意味か 』

 『 日本は 最後には神風が吹いて 本当に勝てるんですか 』

など聞かれると驚くほどの記憶力と判断力や洞察眼を発揮して応えていたのは事実です

時には貧しく生活に困窮している人やヤクザに虐められて困っている人、治安や風俗を乱したり喧嘩騒ぎを起こしている朝鮮人などに注意したり時には仲裁したりして、民生委員的な活動で人助けをしておりました

当時の警官は腰のサーベルの威を借りて人に居丈高に虐める人も少なくなかったのです

そんな警官には恐れず直接その警官に注意したり、時には警察署長を訪ねて正当だと信じたら恐れずに忠言したりもしておりました

だから当時の親父は周囲から [町の大久保彦左衛門] と呼ばれて或る畏敬の目で見られていたのは事実でした


歴史上の [大久保彦左衛門] はその当時 「天下のご意見番」 として通っていたそうです

彼は幼少の頃から徳川家康に仕え、数々の戦いで活躍し、徳川幕府の樹立に多大の貢献をしたのです

処がひとたび天下統一が成ると武勲の功績は忘れられ、口先上手の政治家たちが幕府に重用される世の中になっていき、彦左衛門も自分らの不遇に憤懣は募るばかりの日々でした

三代将軍家光の時代になるとやっと将軍の伽衆に加えられ、家康の幕府樹立の過程での苦労話など披瀝して聞かせ、口に衣着せぬ直言をして将軍に対して幕府の進むべき道を説いて聞かせたそうです

自分の出世を顧みず、常に多くの浪人たちを養ってその就職に奔走したりして、様々な人々から義侠の士と慕われていたのです

いわゆる [正義の味方] だったのです

親父は何者にも恐れを抱かない [正義の味方 今様の 大久保彦左衛門] だったのです
[大久保彦左衛門に関する参考資料]

 大久保彦左衛門が残した『三河物語』について紹介する

 『三河物語』の中に 「いま出生する者としない者」 という項目がある

  「いま出世する者」として
   @主君を裏切り主君に弓を引く者
   A卑怯な振る舞いをして人から笑われる者
   B口先だけうまい者
   Cソロバン勘定がうまい者
   D前歴がよくわからない者

  反対に「いま出世しない者」として
   @絶対に主人を裏切らない者
   A合戦一途に生きる者
   Bお世辞がいえず世渡りが下手な者
   Cソロバン勘定が下手な者
   D最後まで主人に仕え続ける者   (意訳)

 と列記している
 「これは逆ではないのか」と疑問をもつ人が多いと思う
 徳川になって武断政治から文治政治に一変した結果、武士が武功派よりも文治派が大事にされるようにった
 今でいえば自衛官、制服組より背広組が肩で風切る世の中に変わったのと同じです
 原本は1冊しかないのに百冊以上も現存していることは「大久保のいう事は正しい」と共感し誰かに見せてやろうとせっせと書き写したに違いない
 さすがに大久保彦左衛門である


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  【 一枚の赤紙で次兄も応召


大戦中の警戒警報や空襲警報のサイレンもまだ聞かない頃で空襲で焼失する前の見初小学校の校舎に通っていた頃です
登校しても戦馬用の馬草刈りや畑の肥料に道端の馬糞を掻き集めたり、戦勝を祈願しに学年毎隊伍を組んで市の水神さまにお参りをしておりました
國の祝祭日の紀元節や天長節、明治節、そして大詔奉戴日などの日には必ず式があり、1年生から6年生までの全校生徒が講堂(今の体育館)に整列して奉安殿から持ちだされた教育勅語を校長先生が檀上で朗読されみんなは頭を伏せて聴いていました
そんな環境の中でまだ教室に坐って先生の話が聞けるまともな授業が行われていた頃だったので、多分昭和19年始め頃の小学校3年生ぐらいだったろうと思います

郵便屋さんが玄関の来たのを聞いて間もなく親父が私に向かって
 『 ついに懿(ヨシ)にも令状が来よったぞ。 伴(トモ)、これを懿(ヨシ)の処へ届けてやれ。 』
 『 召集令状だ。 赤紙だ。 懿にもついに来よったか。 そうか、懿も戦争に行くのか。 』
その赤紙は親父にとって兄の明日からの事を想像して相当なショックを受ける呼び出し命令だったのです

次兄の懿雄は当時吃音(どもり)がひどく、これから2年くらい前だったと思いますが北九州でどもりなどを直してくれる処があるとの情報を何処かから親父が手に入れて来て、看て貰いに行けと云うことになりました
一方オネショが治らないで両親を困らせていた私(6歳頃)も連れて行って一緒に看てもらえと親父の指示で2人汽車に乗って小倉に行ったことがあるのです
そこは祈とう師の様な処だったとかすかに記憶しています
その場で兄だけ看てもらい私には何もなくまた汽車に乗って帰って来てしまったのです
 『 僕は看てもらえなかった。 』
親父の指示で2人が看て貰うつもりで小倉まで行ったのに兄は私を看て欲しいとは云ってくれないまま帰って来たのです
帰り着くと不安な気持ちが一度に解けて親父にことの次第を云ってしまったのです
「高い汽車賃を遣って」 と親父の前に2人並ばされてコッテリと叱られました
兄は普通でもどもり、特に他人に話しかけたりは大の苦手だったので帰って叱られる事は判っていても弟のオネショを看て欲しいとはその場で言いだせなかったのです

体格も痩せて45kgそこそこの痩せた身体でどもる兄は他人と話しをするのも不得手だったので親父には兄が召集されて戦地に引きだされるのが親心として怖く、可哀相でできることならこのまま赤紙が来ないままで過ぎていって欲しかったのです
それが遂に来てしまったのです

親父に手渡された封筒を大事に持ってバラック家などの間を抜ける小路を走って約2km離れた兄の勤める「宇部曹達」に向かったのです
途中、内緒で封筒の中味を垣間見ると大人達の話を耳にして薄々知っていた赤い紙があの召集令状だと判り遂にあの兄にも戦争に行くときが来たのだと知らされたのです

会社の正門に着いて守衛の人に
 「兄に召集令状を届けにきました。」
と告げると緊張した面もちで一人が走りだして行き、暫くすると兄を連れて私が待つ正門に2人で帰ってきました
今想うと電話がなくて当時は走り使いの伝達だったのだと思います
兄に封筒を手渡し
 『おとさんから (当時わが家では親父をオトウサンとは云わずウのないオトサンと呼んでいた) 届けるように云われて持って来た』
と告げると既に守衛から聞いていたのか、それとも当時として最悪の事態を予想していたのか予期していたより落ちついた感じで
 『そうか』
と云って受けとり中から赤い紙切れを出して自分の名前と召集令状の漢字を確認して、これから大きく変化していく自分の生きざまを一瞬のうちに想像し連想したのだろうと想います  間違いなく人生最大の怖ろしさを予感していただろうと思います

「赤紙」はインターネットで調べるとハガキより少し大きめの物から映画「母べえ」に出てきた赤紙はハガキを横に2枚つないだような横長の赤紙でしたから各部隊で違いがあったのでしょう  内容は召集される男子の氏名と集合する部隊名、集合時間等が記されていました  これは[帝國憲法]で日本男子に課された兵役の義務に依るもので何人も叛くことのできない絶対服従の命令書なのです
             [赤紙の一例] (インターネットより)
兄は私と同じ亥年で一回り上の大正12年生まれですから20歳位だったと想います

2日後、兄も同じように「出征の歌」と千人針に送られて出征兵士を送る歌
その兄は平成19年8月9日享年85歳で天の風になってしまいましたが、あの日に赤紙を受けてから南洋のボルネオ島に連れて行かれ、軍馬に蹴飛ばされても大怪我もせずに済む事があったりして随分な苦労と生死の境界をさまよいながらも根が強かったのです
私が戦後も井原で疎開生活を続けていた留守の間に痩せ細って骸骨の様相になってボツネオから無事に引揚げて帰国復員できたのです

無駄な戦争、無理な戦争、勝てない戦争、戦ってはいけない相手との戦争と聡明な親父は戦争中から何時も口にしていました
そんな父の元に2人の兄(上の兄は支那大陸に従軍)が揃って無事に帰国できた事は戦後の親父に一つの誇りであり心の慰安だったろうと想います


[追記] :
[爺] が井原から宇部に引きあげて来て宇部の神原中学校(神原公園に隣接したバラックの仮設施設)への転校手続には親父の指示で懿雄兄が連れて行って呉れ、転校手続を滞りなく済ませてくれました
その頃はボルネオからみじめな姿にまで消耗し尽くして命絶え絶えの中にも生命力の強さとまたまた親父・お袋の日夜絶えない神仏への祈願の証しとして赤紙1枚で出征させられた故郷宇部の両親のもとに帰って来れたのです
その後、兄は独学で公認会計士の資格取得を企図し、「経済原論」などの部厚い本を暇を見付けてはいつも読んでいました
市長賞を貰って卒業できた能力があったのに尋常小学校までの学歴しかない兄は3回目の受検で美事に学科試験に合格しました
しかし2次試験には3年の実務経験を要すると云う条件で次のステップに進めないまま資格取得は断念しました

その頃からどもりはなくなり好きな晩酌や会合での酒(日本酒一辺倒の兄でした)が入るとプカプカと立て続けにたばこを吸いながら手酌もいとわず飲みつづけ冗舌に持論を曲げることなく他人の話は遮っても話し続けるようになりました
これまで話し足りなかった分を一気にばん回するかのような話好きになっていました

兎に角、兄の一生は戦地ボルネオで生死の境を彷徨う貴重な体験もでき、万死の中で無事に生還できる好運にも恵まれ、地道な努力の積みかさねとそれに基づく自信に満ちた思考で晩年には酒を十二分に楽しみ、嫌煙時代になっても一切お構いなくお尻から煙が吹きだしそうなくらいタバコも吸いつづけ、独り冗舌を楽しんで過ごしていきました。
主義主張を堅持しつづけて過ごした幸せな一生だったと想います。
こんな一生を送れたのも両親の子を想う心のお蔭と今は感謝しながら3人一緒に編隊を組んで天の風になって駈け回っていることだろうと想います

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  【 篠田のおばさん


我が家の2軒右隣に 親父たちが [神さま] と呼んで祈祷して貰う [篠田のおばさん] がおりました

親父とお袋は月に1度その [篠田のおばさん] を家に呼んでお布施を包んで神様のお告げを聞き、出征している2人の息子の武運と無事帰還を祈っていたのです

床の間に神棚をあつらえて、そこにお供えもの(祈祷料の袋包みなど)をお供えをして待っていると
神主の支度をした [篠田のおばさん] が来宅してその神棚に向かってしばらく祝詞を唱えているのです
その間両親は後方に正座して一緒にお祈りをしておりました  勿論神式ですからお経ではありません
わたしも後ろで一緒に正座して付き合っていました

暫くすると突然その [篠田のおばさん] に神様が乗り移ったような様子でのけ反りかえり、急に威だけ高な態度と話し言葉になって、
その口から神様のお告げが発せられるのです

当時、2人の兄は上の兄が支那に、下の兄がボルネオの戦地に出世しており、親父とお袋は2人の息子の無事をただひたすら願い、神頼みの力も借りていたのです
ある時の祈祷で、神様が乗りうつった [篠田のおばさん] が神さまの口調になってそのお告げで

 『 そち(親爺のこと) の息子が軍馬に横腹を蹴られ大怪我をする処だったぞ
    余が身代わりになって息子は無事だったぞ 』

と云われたことがありました
親父とお袋 は畳に頭をすりつけて神様に何度もなんどもお礼を云っておりました
隣に座って一緒に拝んでいた私も同じように真似をして畳に頭をすりつけて拝んだのを憶えております
私も後ろに坐ってその場を観ておりましたので事実なのです

途中から [篠田のおばさん] は小郡近くの深溝に転居されましたが月に1度、母親について深溝の家まで祈祷して貰うのについて行っていました

井原に疎開するまで続いていました


戦後、ボルネオからやせ細って帰国してきた下の兄(私と12歳ちがいの同じ亥年生まれです) は、馬に蹴られた話になったとき軍馬に脇腹を蹴られ 2m くらい跳ばされたが蹴られた処に丁度軍用水筒があって直接腹を蹴られなかったので怪我もなく五体は無事だったと話しておりました

神様のお告げを聞いたときは何か信じがたい事でしたが、後になって事の次第が判ってくるとあの時のお告げはこの事だったのかと納得でき、全てが迷信ばかりとは云えないことだったのです

兄ら2人が支那やボルネオの戦地から引き揚げてくる日までどんなに寒い朝でも、親父は毎朝日の出時間に神棚と仏壇にその朝お袋が炊いた熱いご飯と新しいお水と入れたばかりのハブ茶をお供えしていました

そして、神棚に礼拝して武運長久を祈願し、仏壇の前に座って約20分くらいお経を挙げて祖先を礼拝するのが親父の日課でした

その後お袋が部屋の掃き掃除をして、それが終わるとやっと3人が朝飯の席に座れるのです

我が家では裏庭で育てたハブ茶をずーっと常用しており、朝はそのハブ茶を遣った茶がゆを朝食にする事が多かったのです


兄たちが2人とも元気で帰国できたのは親父とお袋のこんな毎日、毎日の子を思う努力が神仏に通じた結果であることは間違いないのです

一人の息子も失う事なく敗戦を迎えた事は日本中が悲しみに暮れている最中でも親父・お袋にとってはありがたく楽しい戦後の日々だったと思います



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  【 コップ一杯の焼酎


戦後の昭和23年の夏休みに私は井原の中学校からまる3年の疎開生活を終えて宇部に帰ってきました

そして中学校、高等学校と進む頃には物資も大分行き渡り、我が家でも親父の大好物のアルコールは1斗入りのカメに入った焼酎を買ってきておりました

科学実験などに使うビニールホースを使ってサイフォンの原理で1升瓶に小出しして楽しんでおりました

町内会などの会合などに出るときは支度を終わってからコップに並々と焼酎を注いでグイと一気に飲み干し、一回舌打ちをしてから元気に出かけて行っておりました

親父は主に日本酒を飲む時もあり、焼酎に切り替えて飲むときもありました

そしてこのように出かける時などにはいつもコップ一杯を飲み干して元気づけして出かけておりました

親父は一生涯アルコールを楽しんで過ごし、最後の火葬場ではいつまでも長い時間くすぶって燃え続ける塊がありました
火葬場の人が教えてくれて、それは親父の肝臓だと知りました



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  【 いもむしスタイルの受験勉強


生れ育った宇部も終戦した昭和20年には連日続く機銃掃射や爆撃で炭鉱や工場は破壊されてしまい、ついに7月2日の宇部大空襲で見渡す限りの焼け野原となってしまい、母校の見初小学校もコンクリートの土台のみを残して何もかも焼かれて灰になってしまいました。
何時殺されるか分からない時に少しは安全な場所としては山の中の田舎しかなかったのです。

親の計らいで井原の叔母さんの家に疎開させてもらうことになり、7月30日、母に連れられて空襲の合間を縫って走る国鉄の宇部線と山口線そして三江線を乗り継いで暗くなった因原駅にやっとたどり着きました。 そこから遠い道を歩いて叔母の家の「新出屋」に行き、2週間後の8月15日には昭和天皇みずからマイクの前で読み上げられた終戦の詔勅の玉音を聴く事になったのです。
国民学校4年の夏休みで敏治兄さんについて川に魚を獲りに行く途中でした。

それから丸3年間、叔父叔母の家に居続けて新制中学校の2年生の夏休みに戦地から帰ってきた2人の兄と両親がいる宇部に帰ってきたのです。
次兄に連れられて神原中学校に入り、保安大学校に入学する昭和29年春まで宇部での受験勉強の学生生活を送ったのです。

井原にいた時は椅子に腰かけて座る机など勿論なく、30cmくらいのちゃぶ台が私の勉強場所でした。
宿題はやったと思いますがその机に向かって勉強した記憶はほとんどありません。
しかし、宇部に帰り、宇部高に入り、大学受験を意識するようになった頃には2人の兄は家を出ており両親と3人の生活でした。

受験勉強は旺文社から出版された厚さ約5cmの過去の大学入試問題集を買ってもらいその1冊を初めから順番に解いていくだけの自己流の受験勉強に熱中していました。
また毎月の蛍雪時代も入試傾向などを知る唯一の情報源でした。
その中にある出題を解いて返送すると2月に1回くらいは優秀回答として表彰され鉛筆を1ダースが賞品で送ってきたのが嬉しかったことを憶えています。

そんな宇部の我が家での受験勉強生活も椅子に座って向かう机は買ってもらえず、井原の時代と同じように食事に使うちゃぶ台が私の勉強机でした。
昼間は明るい場所に持って行って明るい方に向かって勉強していました。
  夜は両親は1階の神戸(カムデ)に寝ており、私はひとりで2階の3畳間くらいの小部屋の押し入れから布団を引き出して敷いて寝ていました。

旺文社の問題集とメモ用紙、そして賞品で貰った鉛筆を1階から持ち込んできて布団に俯せに寝そべり胸の下に枕を置いて畳の上で勉強していました。
頭もとに裸電球のスタンドを置いて照明にしていました。
部屋の電気を点けていると階段を通して1階まで光が届き「早よう寝んか。」と親父がトイレに行く度に声がとんでくるので電気は点けずに部屋の照明は落として頭もとのスタンド電球のみを点けて伏せた姿勢で問題に向かっていました。
今想えばこんな最悪の姿勢で勉強してきてよく目を悪くせずに済んだと不思議です。
最盛期には視力が2.0あり、60歳まで運輸省の定める事業用操縦士の身体検査に合格して約35年ジェット戦闘機のテストパイロットとして飛行してこられたもんだと振りかえっています。

私と同じようなこんな格好で勉強していたいう人(女性)が先日ラジヲで説明しながら「いもむしスタイルで布団を背中からかぶって勉強していました。」と云っていましたが私も最後までこのスタイルでの受験勉強でした。
私の私生活では腰掛椅子に座って向き合う机は結婚して大分後の時代までなかったのです。
私の子供や孫たちは小さい時から一切を準備された恵まれた境遇のなかで育っていきましたがそれに見合うだけの頑張りをしていたようには感じられません。



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  【 出立ちの前夜


この項では高校を卒業して [保安大学校] 入学のため我が家を旅発つその前夜の事についてお話するつもりです

私は昭和29年3月1日に行われた [県立宇部高等学校] の第4回卒業生として式に参列し卒業証書を平中校長から直々に戴きました

大学受験のため各地に出かけて不在のため出席出来なかった人が自分のクラスでは半数近くおりました

当時の大学入試は国立を含めた全ての国公立大学は 1期校、2期校に分別され、前者は3月初旬(2日〜6日頃)に、後者は3月の後半(23日〜27日頃)に2〜4日間で全国一斉に実施されておりました

従って当時は私立大学や保安大学校など一部の大学を除いて国公立大学の受験は最大2校までしか受けられませんでした

多くの私立大学は上記の日程を外したスケジュールで独自の入試が行われておりました

私は開校2年目を迎える 「保安大学校」 と国立1期校に 「東京工業大学」、2期校に 「九州工業大学」 を受験するべく願書を出して準備を進めておりました

これら3校の選択は担任の今井先生やクラスメートとの相談、そして時の流れや自分の好み、それから両親の希望などで自然な環境のなかで決めておりました

そして願書提出、受験場への出発、入校手続き、入校決定までの過程では 親父の強い希望や指示・願望 で大きく左右され決まっていきました

何しろ子供の自分にとっては逆らうことが許されないし又それを越えた絶対的な親父だったのです

私にとって最初の大学受験は昭和28年11月に行われた 「保安大学校」(現防衛大学校) の入試でした

この受験には親父もある種の希望を抱いて全てを期待しながら機嫌良く励ましと共に受験地の小月(山口県)に送り出してくれました

約34倍の競争率でしたが無事合格(400人) の通知を貰いました (昭和29年3月20日 後で知りましたが席次17番の合格でした)

次の国立1期校 「東京工業大学」 の受験と国立2期校 「九州工業大学」 の受験は親父に内緒で願書を発送し、受験票を入手して受験の間近になるまで静かにして時期が来るのを静かに待ち、間近になってから事の次第をおそるおそる親父に打ち明け、並行して受験の準備を進めておりました


東京工業大学の受験のための上京について親父は機嫌の良いときは

 「東京への汽車の旅は各停(ドンコ)の汽車で行き、ゆっくり周りの景色を観て地理を勉強しながら行け」

と云ったり、また時間が経って気分が変わると

 「保安大学校に入るのだったら東工大を受験してもムダになるから辞めとけ。
  不合格になったらお前も自信を失う事にもなるだけから」

と云って受験のための上京をなかなか承諾してくれないのです  当時の我が家では内緒での上京はとても不可能な状態でした

一緒に受験しようと約束した西村君と原口君とは [特急つばめ] にしようか、[特急あさかぜ] にしようかと陰で相談して話を進めていたのです

最終的には親父の決断、鶴の一声で上京は不可能になり東工大の受験は消滅してしまいました

東工大の受験票 (No:2412) は今もむなしく私の手元に残っております

その次の受験は国立2期校の 「九州工業大学」 でした

その頃は自宅の裏に土蔵を新築する工事をしている最中で、出発受験のために前日受験地戸畑に向かって出発する時間が迫るのにその手伝いから抜け出す機会が見つからずやきもきしておりました

その時、同居していた次兄の懿雄が上手く抜けだすチャンスを作って家の外に送り出してくれましたので、後のことは構わずに大急ぎで岬駅に走りました
夕方、戸畑に着いて予約してあった大学の学生寮に向かい、明日の試験初日を不安な気持ちで8人雑魚寝の1人として床につきました

試験日程は 3/23、3/24 に学力検査がありました

 初日 (3/23) の午前 (3時間) は数学 (解析T、解析U、幾何の内から2科目選択) が、
          午後の2時間は 英語 が、 そして

 2日目 (3/24) の午前 (3時間) は理科が、
        午後の2時間は 国語 と 社会 (一般社会、日本史、世界史の内から1科目選択) が

実施され、学科試験に合格した者は更に引き続いて
3/25 から 3/28 の4日間の内の2日間で レントゲン撮影 と 面接試験 が実施される事になっており、
無事学科試験合格を知らされ

 3/25 〜 3/26 に面接試験と身体検査を受験しました

面接試験では

 「保安大学校に合格したら、保安大学校に行く予定か」

との質問を受けましたのですかさず

 「勿論、本校に合格できましたら [九州工大] に入校させて頂きます」

と即答しました  試験官の前に置かれた受験者(小生)の成績評価表用紙の右上に [7] の数字が目に入りました
後で受験生同士の話からその数字は学科成績の席次らしいということになりましたが確たる証拠はありません

暫くして合格通知を貰いましたが(昭和29年4月2日)、その合格通知の封筒は随分とくたびれたまま今も私の手元にむなしく眠っております


それでは本題の出立ちの前夜について記述します

「保安大学校」への入校を決心し、入校手続きを終わり、4/9(金) の正午までに着校するようにとの通知を受けました

4/8の朝出発することになり、その前日 (1954/4/7) の夜、両親と次兄夫婦と長男生洋志君、そして義姉の妹で高校の同級生の河口克子さんが送別に我が家を訪ねてくれ、お袋と義姉の手作り料理で門出の送別会を開いてしてくれました

その席で親父が私の将来について得々と説教してくれました

一言、ひとこと耳障りな親父の最後のはなむけ言葉でしたが、今思い返すとそのどれもがありがたく感じられてならないものばかりです

その中でわたしは

 「これまで何度もお父さんが死んでしまったらよいと思ったことがある」

 「憎くて、憎くて仕様がなかった時がいっぱいあった」

など、思っても息子として決して親に対して口にしてはならない事を最後の出立ちの夜に面と向かって口に出して云ってしまったのです

この一言で、これまで戦中戦後の厳しい環境の中で無事に育てて呉れた両親に対し取り返しのつかない不孝をしでかしてしまったのです

確かに親父は3人の息子たちに比類をみない厳格で容赦のないそれはそれは厳しい親父でした

でもそのお陰で健康にして隣近所から羨ましがられる自分にして送り出してくれたのです

親父は

 「 そうかい ・・・ そうだろうなぁ 」

と承伏したように頷いて聞いてくれたのが今思い出され涙がむなしく流れてきます

親父にしてみれば さぞかし悔しい想いをしたことだろうと今になって悔やまれてなりません

親父が亡くなってからこれまで何時も心の隅で私は 「許してくれ 親父」 と叫んできました

今、こうして念願であった 『親父の想い出』 のページを立ち上げ、その中で白状し、紹介することにより 少しでも親不孝で過ごした過去の償いと親父への深甚な弔いの気持ちを表明したいと念じております

その席での最後に自分が永年かかって築いてきた自分の財産の分与についても言及し、

 「賢と懿は世帯をもって子供もでき自立させたがお前はまだ子供で未来はこれからだ
  懿たちの前ではっきり云っておくが万一なにか起きたら残したものはお前に相続させる」

との話を終わりにみんなの前でして送り出してくれました

翌 4/8 の朝、山陽本線の [小郡駅] を急行に乗って出発し1昼夜経った9日の早朝4時過ぎに [大船駅] のホームに着しました

ホームに降りて初めて吸い込んだ東京の空気はひんやりした冷気だったのを今も憶えております

横須賀線を乗り継いで [久里浜駅] に降り立ち、指示された通り午後からの着校手続きを無事終える事ができたのです

全国から集まった新入りの同級生の中には私と同じ丸刈りの坊主頭が珍しくない時代でした

配属は112小隊 (学生隊第1大隊第1中隊第2小隊) でした  そして指導官は横山登1等陸士でした
さばさばした小柄な体躯の軍人さんで陸軍士官学校の軍刀組卒業のエリ−トさんでした

翌日から早やばやと 徒手訓練、手旗信号訓練、非常呼集訓練、カッター訓練 など次々と盛りこまれたスケジュールに従って訓練は進み、
1ヶ月後の 5/13 (木) の入校式にはそれなりに恥ずかしくない保安大学校の新入生 (第2期学生) に育てられていったのです



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  【 初めて鳴いた


親父は趣味で庭の池で鯉や金魚を飼っていました

朝に10時頃になると

 『キンギョウエー  きんぎょ 』

と抑揚のある澄み渡った声で捻り鉢巻きをしたおやじさんが天秤を担いで時々金魚を売りに来ておりました

行商に来る度に得意客の親父に声をかけて桶の蓋をはぐって自慢の口上で金魚の模様の面白さを自慢しながら勧めるのです

親父もこの金魚の模様は変わって面白いとか目玉が奇妙だとかいいながら適当に4〜5匹買ってきて池に放しておりました

裏庭の池には前から迷い込んだ亀も居着いており、手渡しで餌をやるのを楽しんでもいました

50年以上経った今もその亀は同じ池に主らしく永住しており、水面をパチャパチャと波立てると奥から泳いでやってきてソーセージなどをやると食いついて手移しに食べるのです

鯉や金魚とお互いに干渉しないで、いまも元気に同棲しております


また、ガラス張りの2坪くらいの温室も手作りで造ってサボテンなどの観葉植物も親父は楽しんでおりました

昭和28年暮れから裏庭に土蔵を建てることになった時、邪魔になりその温室は撤去されて今はありません


そしてウグイスや目白などの小鳥も裏の廊下や軒下に鳥かごを吊って飼っておりました

縁側に座って小さなすり鉢で餌を練って小鳥にやっている親父の姿を思い出します

私が保安大学校に合格して昭和29年3月の中旬、横須賀の久里浜に出発したのですが、私が最初のハガキに近況と学校の印象などを書いて知らせたその返事に

  『 君が我が家を発ち横須賀に向かったその日の昼ごろ
    これまで一度も鳴いてくれなかったウグイスが
     初めて鳴いたよ

    うまくはなかったが兎に角鳴いてくれた事が嬉しい

     君の出発の日に合わせて鳴いた事は
      何とも縁起の良いことだ

       身体に気をつけて頑張れ 』

との内容が書いてありました

親父から貰った初めての便りが 「郷関を出る日にウグイスが初めて鳴いた」 との朗報だったのです



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  【 共にあり


昭和29年3月横須賀・久里浜の保安大學校に着校すると最初に入校の手続きを済ませ、衣類など学生生活に必要な装備が支給され、5月13日に予定されている入校式の観閲行進に必要な基本的徒手訓練と執銃訓練などが始まりました

最初に支給された物の中に靴磨きの墨やブラシなどもありました

そんなことをハガキに書いて両親に知らせたのです

すると暫くして親父からの慰問袋 (菓子などが主でした) が届き、その中に親父の得意な日曜大工の作品が入っていたのです

それは (10cm×20cm×7cm) 位の大きさの木製の靴磨き道具を入れる箱でした

蓋は横にスライドして開けるように造られており、その蓋の内側に


 『 磨くたび 思い忘するな 共にあり    父 竹次 』


と親父が毛筆で書いて送ってくれたのです

保安大学校の日課は朝6時に起床ラッパで起きると起床点呼を受けるために校庭に整列し、みんなで乾布摩擦や駆け足などして解散になるのです

各自は部屋に帰ると、自習室、寝室、トイレなどを分担して全員一斉に掃除にかかります

そのあとは靴磨きをしたり、その日の講義の準備をしたりして朝食の時間になるのを待つのです

親父が送って呉れたこの箱と靴を持って外に行き隣の学生と話をしながら靴を磨くのが毎朝の日課でした

毎朝、この箱を開ける度に蓋の裏に書かれたこの歌を見ては親父の気持ちをありがたく思ったものです



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  【 おしゃれな親父


親父は明治19年(1886)1月20日生まれで、45年間続いた明治の世の中ほどに当たる時代の生まれです

そして終戦を迎えた昭和20年8月は満59歳7ヶ月だったのです

そんな古い時代に生きた男でしたが

   「伴や うらぁな 耳が寝ており 貧乏耳なので どうかして少しでも立てたいものだと

     寝るときは何時もこうして 少しでも耳が立つように寝癖を付けるようにして寝てるんだ 」


と云っておりました。  どう云うことかと云えば

寝る時は何時も横向きになり " 耳" を顔の方に寝かせて枕に当て、寝た耳が少しでも起き立つように寝癖を付けようと努力し続けていたのです

親父は私の知るかぎりこの努力を戦争中も戦後も続けており、昼寝をするときも何時も守っておりました

しかし  「 永年続けた甲斐あって以前より大分耳が立ってきた 」  と云ったのを最後まで聞きませんでした

そんなムダにみえる努力でも惜しまず続け通した 「オシャレ男」 の親父だったのです



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 【 ただ酒を飲むな ・ ただほど高いものはない


親父は生前、この言葉をことある毎に私たちに話しておりました

これから社会に出ていくといろんな場面でつきあいや商談の相手から接待を受けることになろう

相手がお前から受けた恩義や好意に対して感謝やお返しの主旨で接待を申し込んでくることがこれからの人生で多々あるはずだ

相手はお前に対して言葉巧みに宴席への招待や贈り物で近づいてくる場面が必ずある

他人様がお前に対してタダで招待や届け物をするはずがないのだ

その裏には必ず何かの便宜を特別に取りはからって欲しいと云う魂胆があるのだ

飲ませて貰ったタダ酒は後刻必ず高価な出費となって返ってくる

それが返済や弁償で済むことならまだ安いものだが、それが原因で身を滅してしまった人は数え切れない

地位が高くなるとそれにつれて権限も大きくなり、それを狙って周りにハイエナのように寄り集まる衆が増えてくる

彼らは巧言美食をもって近づこうと寄り集まってくるがその裏にはお返しに不当で過大な利益を期待しているのだ

お前に対して本当のタダの酒を提供してくれる他人がいると決して誤解してはいけない

お前の地位に付随してお前が発揮する権限を自分に有利なように不当であっても執行して欲しいからなのだ

これが [贈収賄罪] と云う大変な犯罪になるのだ  公に職を奉ずる者がもっとも慎まなければならないことだと教えて呉れました



 * 最近発覚した防衛省の守屋元事務次官の犯罪をみても僅かなタダ酒を飲んでしまったばかりに
   親子兄弟、子々孫々へ及ぼした迷惑は計り知れないことを銘記すべきと在りし日の親父は教えてくれたのです



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 【 馬鹿とケンカをするな


親父は生前、この言葉をことある毎に口にしておりました

同じ内容の事柄で争うことになってもその相手が親父の云う馬鹿な相手だった場合、そのケンカを最初から始めないことだと云っていたのです

バカとケンカして意見を戦わすうちには相手が理に沿わない理不尽なことや、相手の立場を考えないで自分勝手な我が儘を云ってくることがあります

その場合こちらばかりが理に沿い、相手のことも考えた意見を言ってもケンカにならないから自ずと理に沿わない事も言って反論することが必要になり、その争いを第三者的に眺めると2人のバカが居るように見え、自分も一緒にバカになってしまうのです

即ち、こちらもバカな一人になってしまうのです

親父の云うバカとは学問のない人、成績のよくない人を指すのでは決してなく、論語に云うところの

  「小人閑居して不善を為す」

の 「小人」 を指して云っていたのだと思うのです

 * 人としての常識のない人
 * まともな人として対応 (付き合い) できない人
 * 他人の好意、親切に対して感謝の気持ち、謝意を表せない人

などを云っていたのではないかと思います

法を守らず日本古来の伝統をないがしろにして、
 電車の中でお化粧したり、
 車を暴走させたり、  小遣い欲しさに安易に人を殺してしまったりする

事が日常茶飯事なニュースになってしまった今の日本では親父のこの言葉は噛みしめて味わうべき言葉であったと思います

  「日本の常識は世界の非常識」

と云われますが、日本古来の伝統として受け継がれていた常識をもう一度考え直し、今の社会を見直し受け継ぐべき事柄は日本の常識に復活させる努力が必要だと思います

こうした常識は世界に通用する常識であり、世界から尊敬される社会を育てることになると思います

先見性のある素晴らしい考えを持ち、それを実際に行動に移していた親父はさすがだったと尊敬の念を深くしています



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 【 下戸の建てたる蔵はなし


親父は生前、よく酒を飲んでおりました  毎日です

そして常日頃からよく 「下戸の建てたる倉はなし」 を口癖のように云って、他人に酒を勧めた時、遠慮気味に辞退する相手にはよくこの言葉を発して
 「まあ 飲め  まあ 飲め」
と酒を勧めておりました

親父にとってこの言葉は自分の酒豪 (大酒飲み) を弁護し、弁解しているようにも聞こえますが親父の有する能力・知力・財力からしても、また過去の実績を見聞しても他の人が同じ言葉を発するのと意味する中身は全く違っていたと思います

親父は石州・井原からお袋と連れだって長州・宇部に裸一貫で出てきて 東見初炭坑(海底炭田) の手掘り坑夫として汗水流して働き、2人で他人夫婦の3倍も4倍もの石炭を掘り出して働き、その結果収入もそれに比例して多額の手取りを得ていたと
いつも夕食の時酒を飲みながら子供の私に自慢話とともに指導の一環としてよく話してくれておりました

「酒は百薬の長」 と云われますが度 (適量) を過ごすと身体をこわす基にもなり、交通事故の原因にもなり、人間関係の破滅につながります
親父は真に [酒を飲める人間になれ] と教えていたのです
[酒を飲める人間] とは倉を建てられる財力、知力、体力などが備わった者だけがその資格があるのだと教えてくれていたのだと今は思うのです

親父がいつも云ってた 「下戸の建てたる蔵はなし」 の言葉は 「人一倍働いて自分の金で好きなだけ酒が飲める人間になれ」 と云うことを教えてくれていたのです

この言葉とともに 「タダ酒をのむな、タダほど高いものはない」 をよく口にして教えてくれていました
今の世の中をみると親父の残した教訓は日本中の地位ある人たちに聞き届けてほしいと思います



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  【 ふるさとの言葉


親父の先祖は秀れた品質の鋼を産出していた石見の国の山奥で [たたら産業] に従事していたと親父から聞いておりました

親父、お袋とも私が小学校時代に疎開していた叔母の家と同じ邑智郡井原村(現在の邑南町井原)の出身です

井原には日常言葉のなかに やんごとない、宮中言葉が未だに現存し、そんな言葉が普段に使われる穏やかな生活が営まれております

その一端を

「ごせ」、「にょうぼう」、日頃の「あいさつ」ことば

の3つについて記述します



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  【 ご せ


ある時、親父が言ったことです

炭坑で働いていた時のこと

 『 そこの モッコ をこっちに ごせ 』

と父が云ったところ

 『 日高さんはいつも ゴセ ゴセ と云うが ごせ とは何ちゅうことかね 』

と聞き返されたので

 『 ごせ とは おんほどこせ と云うことだ

    こちらに よこしてください と云う非常に丁寧なことばだ 』

と ごせ と云う意味を説明したと云うのです

親父は [千字本] をつかって何時も漢字の勉強をしておりましたが、これこそ親父の特徴を端的に現した事柄だと思います

[ごせ] とは [御施] と書いて [御(オン)] +[施せ(ホドコセ)] と云う意味なのだ

即ち [施して下さい] に謙譲語の[お]を付けたコトバで

 『どうかこちらによこして下さい  手渡して下さい 』

と云う とても丁寧な言葉 なのです

両親の故郷、そして私の疎開先の石州・井原では今現在も普通に遣われている言葉で、私も小学校や家庭でも遣っていたのです

井原では他にもこのような源氏物語に出てくるような上方言葉が未だに多く遣われております



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  【 にょうぼうたち


私にもこんな経験があります

昭和23年の夏、中学校1年の夏休みに石州・井原での疎開生活を打ち切って親元の宇部に帰り

神原中学校の1年に編入されて間もない頃のことです

 『 おーい  そこの [にょうぼう] たち はやく 教室に入ってください 』

と 大声で叫んだのです

すると周りのみんなが きょとーん と驚いた表情になって

 『 ニョウボウ だってよー 』

と男の子からは大笑いの攻撃を受け、 女の子からは

 『 わたしは あなたの おくさん ではないわよ 』

と いった表情でこそこそ声のなかに大変な攻撃を受けたのです


私が疎開していた井原ではクラスの女の子のことを普通に

  『 ニョウボウ 』

と呼んでいたのです

源氏物語でもそうですが平安朝には女官たちを女房 (にょうぼう) と呼んでおりました

そんな今も歴史に残る高貴な社会の言葉が疎開していた両親の故郷・井原では今も普通に遣われているのです



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  【 子供達のあいさつ


また、井原では他人の家を訪ねる時の挨拶ことばとして一般に使われている  「こんにちは」 または 「ごめんください」 の代わりに

  『 また きました 』

と挨拶して玄関を入っておりました


そして辞退して帰るときは 「さようなら」 と云わないで

  『 また きましょう 』

と挨拶して帰っておりました
大人も子供もみな同じでした  どれもしり上がりの抑揚でした

その挨拶を聞いたらなんとなく心を和ませてくれるのです

また、叔母の家の前の道路は小中学生が毎日の通学に使っておりました

井原では学校に往復する子供達はどの家の前でも、学校に行くときは

  『 行ってきます 』

と親近感のある抑揚をつけて朝の挨拶をして登校し、帰って来たときも同じようにどこの子供も同じ抑揚で

  『 帰りました 』

と云って挨拶して行くのです   そして

学校帰りに喉が渇いた時など「新出屋」の勝手口まで入ってきて

  『 新出屋 のおばさん  喉がかわいたんで  お茶ゃ よんじゃんさい (ご馳走してください) 』

と云って気軽に勝手口の土間に入ってきて飲ませてもらうのです

このようにして村の人たちとの間にはいつも会話があり、どの子が何処の家の子なのか、その家の家族の様子も お互いに把握できるようになっておりました



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  【 Maid in Occupied Japan


戦後の日本は兎に角その日に食べるものがなかったのです

食べられそうな物は何でも山野から採ってきて食べていのちをつなぐことに誰もが全精力を注いでいました

米国からの援助物資(ララ物資)などで少しずつ体力をつけて日本も焼け野原の中から少しずつ国力をつけて品物を製造することを始めたのです

戦闘機製造の残り物のアルミで弁当箱を造ったり、米軍が落とした焼夷弾の空筒の鉄板で鍋や鍬などを造ったりから少しずつ復興の製産を始めました

昭和23年、中学1年生の夏休みに疎開先の井原の叔母の家から宇部に帰ってきて暫くしての頃だったと想いますが

  「 Maid in Occupied Japan 」 

と銘記されたヘンミのスライド式計算尺が自分の手もとにあったと記憶しています
     
   [ヘンミ計算] (インターネットより)

多分、次兄の懿雄の物を勝手に使ったときのことだろうと思います

当時中学生から校生だった自分にとってこの表記を見て鮮烈な屈辱を感じさせられたのを憶えています

日本は戦争に負けて、今米軍に占領されているのだと情け無い気持にさせられた記憶が今も鮮明に残っています

いま調べてみると戦後マッカーサーの占領下の昭和22年頃から昭和27年のサンフランシスコ講和条約締結で独立するまでの

約5年くらいの占領下の日本で製造され、アメリカなどへ輸出された陶器や玩具、カメラ、双眼鏡そして計算尺などの製品に表示され、

北米では「Occupied Japan もの」、「MIOJもの」 と呼ばれて今も特別な価値を有しているそうです


戦争は当事者双方を本当にみじめにしてしまいます

ましてや敗戦する事は二度とふたたび許されないことです

そのためにはどんなことになっても戦争をしなくてすむだけの十分な抑止力を日本が備えておくことだと痛感します








お袋 と 叔父さん・叔母さん の想い出




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  【 云うことを よう聞くんだよ


昭和20年7月2日の大空襲で宇部の街は火の海となって焼き尽くされてしまいました

母校の [見初小学校] も1夜のうちに同じような焼け野原になってしまったのです

母校の焼け跡は 地元に残っていた生徒たちが警報の合間をぬって学校の焼け跡に集まり真夏の暑さのなか約1ヶ月の勤労奉仕で きれいに片づけることができました

その頃も戦況は日毎に悪化していき、まもなく米軍の艦砲射撃が始まり、続いて上陸して来るのも間近だと云う噂が流れ、当時の日本の強固な治安にも不安がつのってきておりました

自分たちの校舎は無くなってしまったが幸いにも焼けずに残った隣の [岬小学校] に籍は移されましたが、もちろんその後は授業などできる環境ではありませんでした

当時、町に残っているのは戦争に行けない子供や病人そして老人ばかりで、元気な青年は男も女も戦争にかり出されて地元には残っていないのです

生命の危険が日に日に差し迫ってきたので親父の決断でお袋の実家に疎開させられることになったのです

7月30日早朝、お袋に連れられて宇部岬駅まで我が家から歩いていき、宇部岬駅から宇部線に乗り、小郡駅 (現在の新山口駅) で山口線に乗りかえて益田駅まで行き、ここで山陰本線に乗り換えて江津駅に向かいました

そして江津駅で三江線に乗り換え因原駅で下車するまで1日がかりの移動でした

蒸気機関車がはき出す煤煙で鼻の穴は勿論、顔や衣服が真っ黒になりながらの必死の疎開移動でした。

因原駅に降りたときは日がとっぷりと暮れて暗くなった駅前でした

激しい空襲の続くなかでもその合間をぬって国鉄はどうにか頑張って運行を続けていたのです

因原駅から川沿いに [断魚渓] を経由して薄暗い田舎道をお袋と2人で叔母の家まで約5kmを歩いて行きました


因原駅から叔母の家 「新出屋(にいでや)」 まで荷物を背負っての夜道ですから随分時間がかかった事だろうと思います

電話もなく事前にハガキで報せただけなので叔父や叔母は何時頃着くのかと随分心配し、待っていてくれたことだろうと思います

その時、私が 9歳、お袋は 51 歳でした

「新出屋」 に着いた時の情景や印象は全く記憶に残っておりません

当時の 「新出屋」 は叔父さんと叔母さんと、そしてもらい子されていた当時川本農林学校の生徒だった敏治兄さんの3人家族だったのです

宇部では親父が独りで連日 [空襲警報] が発令される中で留守番をしていたのです

お袋も私を井原に連れてきて叔父・叔母そして敏治兄さんに 「よろしく お願いします」 と頼んだらできるだけ早く宇部に帰らないとならないのです

何時まで国鉄の運行が続くか判らないからです
爆撃で線路が破壊されたら復旧などあり得ない時代ですから帰れないままになってしまうのです

次の日 1日滞在して3日目の朝早く出発する時です

私は裏の井原川の方を頭にして寝ていました

朝から出発の支度の物音で目は覚ましていましたが、布団に寝たままでいたのです

出発する時になってお袋が枕元にきて、私の顔に接するくらいに顔を近づけて


 『 伴や わしゃ これから宇部に帰るで

    叔父さんや叔母さんの云う事をよう聞くんだよ

      怪我をせんように よい子を しとるんだよ

   戦争が終わったら迎えに来るから それまでさみしゅうても辛抱せえや 』


と 涙を流し、声をつまらせて私に話しかけて云ったのです

お袋にすれば明日の命が判らない戦争の時代ですから、もうこの子と逢えないかもしれない、これが最後かもしれないと胸が痛む想いだったのでしょう

そして 5日後の 8月6日、広島に原爆が投下され、そして10日後の 8月15日 に終戦を迎えたのです

戦争は終結して危険は無くなったのですがその日からこれまでの [日本帝国] は占領軍による [Ocupied JAPAN] に成り下がってしまったのです

その後も厳しい食糧難が続き、空襲で焼け落ちて校舎のない宇部に帰ることはできなかったのです

両親から 「戦争が終わったから直ぐに帰るか」 と3日後くらいに問い合わせてきましたが、宇部に帰らないで予定通りそのまま井原小学校の4年に編入してもらい、中学1年の1学期までまるまる 3年間 叔父さん、叔母さんのもとでわがまま放題をして過ごさせてもらったいました
お袋が枕もとで涙を流しながら諭して云ったことは全く守らない両親にとっても叔父さん、叔母さんにとっても不肖の息子だったのです

いまは亡き 叔父さん、叔母さん に心から感謝の誠を捧げます  ご免なさい  そしてありがとうございました



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  【 トウモロコシ(とうきび)


昭和20年7月末に私はお袋に連れられて宇部から空襲の恐怖の中を国鉄を乗り継いで三江線の因原駅に降り立ち、そこから約5kmの田舎道を歩いて井原に到着、疎開生活が始まったのです

環境に馴染む間もなく、叔父さん、叔母さんについて田んぼや畑に行き、農作業の手伝いを始めました

叔父さん叔母さんにとって最初のうちは手助けにはならなかったのですが、それでも少しずつ農作業の中味を憶えていくうちに少しは役立つ手伝いができるようになり、仕事も結構面白くなってきたのです

また 「新出屋」 では田んぼの鋤き起こしなどの労働力として使う雌の和牛を1頭飼っておりました

その頃の井原では半分以上の農家で農作業に使う牛を飼育しておりました

黒い褐色をして角を生やした種類の牛で、乳牛のホルスタインや北海道で見る角のない牛はおらず全てこの種類の和牛でした

当時の農家では生活に必要な現金は秋に収穫した米穀や秋の麦を供出して代金として入ってくる現金が主で、それで1年間の現金出費に使うのです

だから食べる物は殆ど自分で作り、山で採集した物を食べて生活していたのです

だから隣近所の助け合いは伝統的にしっかりと確立されておりました

豆腐、蒟蒻、餅、煮染め、正月料理から毎日の風呂も都合しあい助け合っておりました

年に1度のお米の供出代金だけでは足りないので少しでも現金収入を増やすためにもその雌牛が助けをしてくれるのです

飼育した雌牛は農協で種付けをして貰い、べこ (仔牛) を産ませ、半年くらい育てて競り市に出して現金を得ていたのです

べこ はしっかり運動させ、沢山の飼い葉を食べさせ元気な育ちの良い牛になるほど高い値がつくのです

私は近所でも評判の牛好きで、毎日いつも夕方には牛を散歩 (運動) に連れ出して、その途中あちこちの農家の [だや] を訪ねては牛を見せてもらっていたのです

べこがいないときは親牛でしたが、べこが産まれるとかわいらしい仕草をするべこを優先して散歩に連れ出していました

そんな日々の生活の中で秋の畑仕事では火のついた縄を腰にぶら下げ、その煙で蚊や虻、[ほび] などを遠ざけていたのですが、それでも [ほび] にだけはやられてしまいました

[ホビ] は 2mm くらいの小さな小蝿の一種でむき出しになった脛や腕に無数に集まってきて蚊のように食いついて血を吸うのです

そのかゆさには我慢できずかきむしってしまうのです

食い付かれ血を吸われた跡には0.5mm くらいの小さな赤い点が残り痒くて腫れ上がってくるのです

叔父さんや叔母さんは慣れて痒くもないのか特に何もしないで夜もそのまま済ませているのですが

宇部から疎開して来たばかりの私には初めて経験する害虫ですから抵抗力が全くないのです

夜になると特に膝から下の脛が痒くてたまらず、1週間もしない内に腫れて化膿してしまい、うみがが出るまでになってしまったのです

叔母さんに連れられて村の診療所で看てもらい白い油の塗り薬を貰ってきて両足にべったりと塗って処置するのが精一杯でした

間もなく宇部からさらし木綿を持ってお袋が訪ねて来てくれました

塗り薬を両足に塗ってその上に白い木綿の布地を切って脚絆のように巻いて学校に通い、5年になった次の夏もまた同じように化膿したままでした

桃の葉やいろんな薬草を干したものを煎じて濃いお茶色になった湯の中に両足を入れて浸したり、どくだみ草を煎じて飲んだりして1日も早く治って欲しいといろいろと手を尽くしました

お袋も叔母さんもいろいろと手を尽くして治療してくれましたがなかなか良くなってくれないのです

地元の子供たちは叔父さんや叔母さんと同じように全然平気なのです

当時の担任の藤田千鶴子先生には随分と迷惑をかけ、お世話になった記憶がいっぱいあります

毎日学校でこんな格好を友達に見られるのがいやで、その頃は学校に行くのがいやになり朝になるのが憂鬱でした

夏になると、「新出屋」の畑でも [トウモロコシ] が収穫されるのです

風呂 (五右衛門風呂) を湧かした薪の灰に皮を剥いだ [トウモロコシ] を埋め込んで暫くおいてから熱い灰にすりつけるとパチパチはじく音がして、食べ頃になるのです

灰をふるい落としてかじりつくとなんとも最高に美味しいのです

[トウモロコシ] の味は疎開して井原に来て味わった井原の最高の美味の一つだったのです

疎開してきた最初の昭和20年の夏には気付かなかったのですが2年目の夏になって [トウモロコシ] を食べると良くなりかけていた傷がまたぶりかえして傷口の化膿が前よりぐじゅぐじゅになり両足付け根のぐりぐりも余計に腫れてきて痛みがひどくなるのです

このことを叔母さんとお袋が知り、その次の日から我が家では [トウモロコシ] の姿が見られなくなってしまったのです

お袋たちは自分に見つからないように隠れて食べていたのを知っていたのですが、傷の事を考えて仕方なく我慢しなければならなかったのです

[トウモロコシ] の栄養分は傷をそんなにも怒らせるほど優れた栄養分を持っているのです

この両足の化膿は年末まで続き次の3回目の夏には刺されても少し腫れて痒いだけで3日もすると赤いゴマ跡が残っているだけで済むようになり次第に黒いゴマに変わっていきました

やっと地元の子と同じように抵抗力が少しずつついてきて油薬を塗って木綿の脚絆をしなくても済むようになれたのです
やっと井原っ子になれたのです

そして疎開3回目の夏には叔母の畑でたくさんの [トウモロコシ] が実り、悲しい思いをさせられる事もなく美味しい [トウモロコシ] を満足するまで食べさせてもらいました


そしてこの頃から私には慣れない百姓仕事から 「脊椎カリエス」 なる腰痛に悩まされる事になったのです

この病気では叔父さん、叔母さんに並大抵な事ではないご迷惑をかける事になりました

これについては後ほど別途記述します



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   【 母屋の外に五衛門風呂


終戦直前の昭和20年7月末、9歳だった時お袋に連れられて石州島根の井原へ叔母の家に疎開するまで、親父・お袋と3人でB-29の空襲や戦闘機の機銃掃射の恐怖をも体験しながら一面の焼野原の景色になってしまうまで3人で一緒に暮らしたのは 宇部市東区中通六丁目 の2階建ての木造住宅でした

その家の庇には「日高竹治寓」と墨書された黒ずんだ木製の表札が掛けてありました

家前の中通りは今はアスファルト舗装されていますが戦争中はマカダム舗装でわが家はその通りに面した南向きの2階屋でした

その約2km南方には瀬戸内海に面して宇部曹達会社がありました

宇部曹達には召集令状が来てボルネオに出征するまで次兄の懿雄が勤めていました

私と12歳違いですから20歳前後だったのです

宇部曹達は今はセントラル硝子と社名変更しています

南向きの玄関を入ると1間幅くらいの土間が裏庭まで続き、靴を履いたまま炊事場の土間を通って裏に出ることができました

出口のガラス戸を開けると6坪くらいのコンクリート張りの庭の上には蔦をかぶった日陰の場所がありそれに接して鯉や金魚そして今も長生きしている亀のいる池あり、池の上をまたいで母屋から離れの便所に行ける渡り廊下がありました

そのあたりの模様は廊下を少しずらして土蔵を造ったくらいで今も昔の戦時中からの面影を多く残しております

裏口を出て右には風呂場と物置の小屋が繋がってありました

風呂に入る時は男性は下着姿になって約5mくらいの距離を下駄ばきで風呂小屋まで小走り行き、木戸を開いて裸電球を点け鉄製の五衛門風呂に入るのです

上手に加減しながらやらないと木製の敷板がドボンと浮力で勢いよく飛び上がってくるので脚の裏で平衡を取りながら底まで沈めて落ち着いたらその上に五体を沈めるのです

うまくやれないと鉄の底に触れると火傷することにもなるのです

湯がぬるくて薪を焚き足してもらった時には焼け火箸に触る熱さです

真冬の寒い時の入浴は元気で体力のある大人でも一苦労したものです

90歳を過ぎたお袋も97歳で入院する日までみんなと同じようにして入浴していたのです

永年の経験でいかに慣れていたとは云え足腰がままならぬ当時の状態で最後までよく我慢してくれたと申し訳なく思い胸が熱くなってきます

また洗濯についても自分の物は長男の嫁さんに頼めず自分で風呂場の残り湯を使って洗濯桶で洗濯石鹸をすりつけて洗濯板を使いながら手洗いを日課にしておりました

兄嫁さんも同じように自分ら家族の物は同じように手洗いして裏庭の物干し竿に干していました

お袋は背が低い上に年で腰が少し曲がり、永年苦労して働いた結果か指先が変形した指もあり洗濯物を広げたり、洗ったり、畳んだりするのにままならぬ気配で苦労しておりました

洗濯を終わって絞るのにも人知れず苦労していました

干し竿に掛ける時、竿が高くて掛けにくいから直してくれと云っても直ししてくれないと電話で泣き言を云ってきたりしていたのです

自分で金を出すから風呂場を直して楽に入れる今様の浅くて滑らない風呂に替えてくれ、そしてわしがお金を出すから洗濯機を買ってくれと頼むが聞き入れてくれないと涙を流しながら泣き言を云っていたのを思うと今になってなんとも可哀そうで当時なんの役にも立ってやれなかった自分が悔やまれて仕方がありません

親父が亡くなってこの方約40年間、孤独に耐え楽しみの少ない人生を生きていったお袋の苦労を思うとこうして元気に生き延びている自分を生んでくれた両親に感謝し、不孝が悔やまれて仕方がないのです

親父やお袋の魂は草葉の陰や墓場の遺骨にいるとは思っていないのです

唄の詞のようにいつも千の風になって自分の身近を舞いながらいつも見守ってくれていると信じています

私が誕生するずっと前に親父が手作りで造り上げた五衛門風呂の風呂小屋も平成5年にお袋が100歳で亡くなってから間もなく改装のために壊され、母屋続きで行き来でき、外から薪木をくべて沸かす手間の要る風呂からスイッチ一つで沸かせる新式のバスタブの風呂に改装され、その後は何の苦労も寒さを味わうこともない快適な風呂に入れるようになったのです

お袋は亡くなる2年前に入院したのですがその入院の日まで寒い冬も下着姿で歩いて風呂場に行き、難しい敷板を操りながら熱い鉄がまに触れないように苦労してどうにか入浴していたのです

また当時、電気洗濯器は一般に普及しておりましたが本家では最後まで使わないで我慢を続けていました

お袋は富山や名古屋に来たとき以外はどうしてもできなくなったその日まで不自由な自分の両手で手洗いの洗濯を続けていたのです

そして終わりごろになってから干すのは美代子さんに頼んでやってもらったと云っていました

家に洗濯機がないのですから兄嫁さんも当時はお袋と同様に洗濯板で固形の洗濯石鹸を擦り付けながら手もみの洗濯をしていたのです

明治生まれの人は強かったのです

平成5年、お袋の葬儀が終わって暫くして裏の風呂場や物置小屋が改装され屋内を通って風呂場に行けるようにもなり、洗濯機も初めて買って置いたので生活が楽になったと兄から便りがありました

亡きお袋も親父といっしょに千の風になって昔の五衛門風呂があった風呂小屋が姿を消して、そこには洗濯機が軽快の動いているのを上からどんな気持で眺めているのだろうかと考えます

今想えば親父の逝った後の我が家には今はやりのDVもどきがあったのです
家に寄って
昔も姥捨て山の噺はありましたが今はやりのこんな言葉も噂話は当時はなかったのです

俺にとって大事なだいじなたった一人のお袋さんだったあなたにただただ ゴメンなさい。


年老いた生みの親に対して優しいはずだった長兄がどうしてこれほどまで理不尽な接し方をここまでしつこくしたのか理解できないことです

兄の初婚は昭和18年ごろと思われる戦時中の事でした
戦地の中支から式を挙げるために休暇で帰国し、親が準備して待っていた美しい女性と結婚式を挙げて早々に再び戦地の支那に単身で帰って行ったのです
内地には両親と小学校2年の自分と小野田市から嫁いで来た新妻の4人で米軍の激しい空襲を避けながら生き延びるための日々を送っていました

戦時中、両親は戦火を避けながら家族4人の安全と食糧を守りながら町内もまとめながら頑張っていました

2人の息子のうち長兄は支那に、弟の兄懿雄は南方の激戦地ボルネオに送られて征き、二度と生きて帰れる望みは皆無に等しい当時 「どうか無事に帰らせてやって下さい。」 と
朝な夕なに神に祈り、仏壇に手を合わせてお願いしていた真剣な両親の姿が私には今もありありと思い出されます
どんなに寒い時も日の出まえの薄暗いうちに起きて四囲の戸を開放ち、部屋の空気を入れ替え、お袋ははたきをかけ箒で掃き、雑巾かけの掃除をして、親父は仏壇を開いて灯明を点け、神棚と仏壇に炊きあがったばかりのご飯を供え、榊やお花の水を替えてお経をあげてお参りしていました

戦後暫くした頃、当時私はまだ井原での疎開生活を続けていた頃2人の息子たちは前後して両親2人が待つ内地に無事帰ってきたのです
当時、召集で戦地に行った息子が2人とも無事に帰国でき、銃後の守りに就いていた家族4人が全員、傷ひとつ受けないで終戦を迎え、市内のほとんどが灰燼に帰したあの大空襲にも我が家はなんの被害も受けないで戦後を迎えられたのです

次兄も私が高校時代女の同級生の姉と結婚し、長兄は私が大学に入るまでに4回の離婚を経験し最後に美代子義姉さんと結ばれて3人の男子に恵まれました
3人はいずれも国大に進学した秀才ぞろいで長兄は他人がうらやむ素晴らしい跡取りを残したのです

このような望外の幸運はなんといっても両親の 竹次・マツの気丈けな心身両面の努力と活躍そしてねんごろな指導のお蔭であることは事実です
私は幼いながら活きたこの目でしっかり見てきており、記憶に残っておるのです

そんな両親のご恩に対して兄はどうしてこのようなあくどい仕打ちを最後の日まで実の母親に施し続けたのか不思議で、悲しまれて仕方がありません

両親は今、宇部の山奥の見知らぬさみしい墓地で並んで納骨されているのですが、隣にいるお袋を看ながら親父はどんな気持ちでいるのだろうかと千の風にそっと聴いてみたいです
どうか安らかに骨を休めて下さい

貴方たちは私ら3人兄弟にとってこの上ない素晴らしく誇りに思える親父(閔堅院釋晃照不退居士)であり、お袋(妙相院釋尼芳照大姉)でした


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   【 鍼 灸


井原に疎開してからの私は学校から帰ってくると農作業の暇な時を除いて叔母さんのいる畑に鍬を担いで農作業の手伝いに行くのが殆ど毎日の日課でした

休日の日には朝から叔父さんについてリヤカーを後ろから押しながら炭焼きや杉の枝落としなど山仕事の手伝いにも行っていました
そんな仕事で汗を流すのが好きだったのです

叔父さんとくだらない話をしながらそれなりに手伝いをして帰りは暗くなって家にたどり着くような事が当たり前のことでした

秋には山にきのこが生えてきます
叔父さんに在り処を教えて貰いながら [こうだけ] や [ねずみだけ] など採取できるのがすごく楽しみでした

そして暫くすると私専用の小さな [オイゴ] を叔父さんが造ってくれました

当時の小学校の通信簿をみると私は身長が 122cm、体重が 24kgの小さな身体だったのですが、それに似合う大きさの杉の二俣を利用して稲束や牛の刈草を背負える小さな [オイゴ] を拵えてくれたのです

小さいオイゴを背負って畑に行くのが当時はなんとも云えない楽しみで、背中にいっぱい背負って足場の悪いあぜ道を歩くと腰が定まらずにフラつくのです

それでも1束でも余計に刈り稲を背負って行きたくてフラついても意地張って背負い叔母さんの後をついて歩くのです

すると近所の人が感心したように

 『 宇部のマッつあんとこの子はよう頑張るのー 』

と褒めてくれるのです

それが心の中で嬉しくて励みにもなり、余計に意地を張ってフラついたりしても稲束の数を減らすことはしなかったのです


小学校5年から6年ころになって校庭で腰を下ろして先生の話を聞いたり、中腰で畑の草取りをすると腰が重くなってきて痛くて背伸びしないと我慢ができないようになってきたのです

叔父さんや叔母さんも時々同じような仕草をして 「腰が痛い、腰が痛い」 と云っているので百姓をしてると仕方がないのだと思い、友達だってみんな同じ事だろうと諦めていたのです

いつ頃だったか叔母さんがひどく責任を感じて

 『 えらい事をしてしまった  兄さん (親父のこと) や姉さん (お袋のこと) に済まんことになってしもうた 』

と云って私を鍼灸の治療に連れて行ってくれることになったのです

最初は叔母さんが連れて行ってくれたのです  その後は

叔父さんもかわりばんこくらいで連れて行ってくれました

行き先は 「よしとき」 とか 「ますぶち」 などの名前が思い浮かんできますが、それが鍼灸医の名前なのか地名なのか今は判りません

今になっては聞きだせる 叔母さん も 叔父さん も お袋 もこの世にいないし、その頃の田所を通り過ぎてその向こうにあった鍼灸医のことを知ることは不可能なことです

朝2時ごろ叔母さんが握ってくれた朝と昼の握り飯を背負って真っ暗な内に2人で 「新出屋」 を出発するのです

叔父さんや叔母さんにとってまる1日農作業を休んで私を針灸に連れて行くことは季節に組まれた日程の中での1日の空白を取り返すことは並大抵の事ではなかったのです

それでも叔父さんも叔母さんも私に愚痴ひとつ云うこともなく遠い道を歩いて針医者に連れて行ってくれたのです

途中では近道のために山道にも入った記憶があり、田んぼの中の狭いあぜ道も通って行きました

歩いていても知らず知らずのうちに眠ってしまい眠ったまま歩いているのです

ついには丸太が倒れるように眠ったまま田んぼに倒れるか路面の無いところに踏み込んでしまい倒れてしまうのです

こんな事が途中になんどもありました

その都度叔父さんも叔母さんも怪我をさせていないか心配しながら抱き起こして

 『 眠ちゃぁ ダメじゃないか  しっかり目をさまして 』

と叱るのですが睡魔には勝てずにまた歩きながら眠りに入ってしまうのです


病院には朝の7時か8時頃に着いたような記憶があるので多分3里か4里 14-5kmの距離だったのではないかと思います

待合室にはいつも10人近い人が先に着いて待っており順番に看て貰うのです

順番がくると男の先生の前で上半身を脱いで俯せに横になって痛みのある腰の周りに針をして貰うのです

他の人が針をして貰ってるのを初めて見たのですが
この針灸と云うのは 太さ2mmくらいで長さが5cmくらいの空洞のチューブの中に細い細い金属の針を入れ患部にあてて針の頭を人差し指でポンとたたくのです

そして針先が少し刺さったところでチューブを抜き、親指と人差し指で針を3センチくらいは揉み込んでいくのです

最初はこの細いチューブの支えがないと極細の針は曲がってしまい堅い皮膚を通り抜けないから補助に使っているのです

5〜6cmくらいの長さの針だったと思いますが揉み込む深さは浅い時もあり、3分の2くらいも揉み込んでしまう時もありました

そしてその針を抜いてまた同じようにして別の場所に差し込むのです

時には、「金」 の極小の針を揉み込んで皮膚から下を残して切り取ってしまうこともしていました
極細な金の針は身体の中に残したままにするのです
「金」を身体に残すと何か良い効き目があるんでしょうか
治療代金も高くなるのだろうと思います

中には同時に2本の針を揉み込んでそれに電気を通しているような事もしていました

その治療院では お灸 をしていたかどうかの記憶はありませんが私はお灸をしてもらった記憶はありません

2人がこの治療を終えるのは大体昼頃になるのです

終わるとムスビの昼ご飯を食べてまた朝きた永い同じ田舎道を引き返して行くのです

夏の季節は帰り道の太陽の照りつけが強く汗びっしょりになってテクテクと疲れ果てて歩いて帰ったいたのを漠然と憶えております

帰り道は朝のように歩きながら眠ってしまうことはありませんでしたが歩き疲れての遠い道のりだったことを憶えています

「新出屋」 に帰り着くのはいつもどっぷりと日が暮れた後でした

家に残っていた叔母さんか叔父さんは農作業の忙しい中で風呂を沸かしたり夕ご飯の支度をして2人を待っていてくれました


今から60年も前の事で医学的な技術も進んでおらず、診断器具も皆無の時代でしたがそこの医者(?)は私の症状を看て病名を
  「脊髄カリエス」
と診断されたのです

その後はこの病名を正しいものと信じてきました

昭和23年に宇部に帰って農作業をしなくなってからも腰の痛みは続きました

そしてその後自分の腰痛について専門医の診断を受けたことがないまま今日に至っております

そして70歳を過ぎた今も [腰] は私の一番の弱点であり、日々の生活やトレーニングでも常に腰を意識していなければならないのです

今も私を悩ませている [腰痛] ですが、井原での短い生活のなかで叔父さん、叔母さんのご恩を感じる貴重な想い出をつくってくれたことは事実です



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  【 山鳥の雛


「新出屋」 から下 (しも) に向かって 100m くらい行くと川幅が5mもない [天蔵寺川] が道の下を横切って右の天蔵寺原から左に向かって流れ、[井原川] に合流しています

井原川はここから [井原小学校] の校門の前を流れて [断魚渓] を下って日本で10番目の大河 [江の川] に向かって流れていきます

天蔵寺川の手前右側には2mくらい低い処に隣家の 「中村屋」 の母屋が建っており、何時もその [曽根さん] 家族の笑顔と挨拶を交わしながら学校に通っていました

[天蔵寺川] を超えてすぐ左の道路と [井原川] に挟まれた三角形の形をした 約1反 くらいの 「新出屋」 の田んぼがありました

夏には田植えをして米を造り、冬には小麦を種から育てて収穫しておりました

その日は梅雨に入る前の天気のよい5月頃のことだったと思います

その三角形をした田圃には黄色く色づいた小麦が収穫を待っておりました

その頃は 私も稲刈り や草刈り、麦の刈り取り も自力でできるようになっていたので井原に疎開して1年以上過ぎた昭和22年の春だったろうと思いますが正確にはわかりません

その日はお袋 (52〜3歳くらいか) も農作業の手伝いに井原に帰っており、叔父と叔母 そして お袋 と 自分 の4人で黄色く色づいた小麦の刈り取りをしておりました

畝造りになった麦畑を畝に沿って左手で麦わらの根本を掴み、右手の鎌で刈り取っては後ろに置き、10cmくらいの適度な束にできるくらいになると腰に付けた餅米藁を4〜5本抜いては束ねていくのです

ところが叔父さんや叔母さんのように堅くて格好の良い束に縛ることができないのです

力不足もありますが不慣れな仕事なので叔父さんや叔母さんのようにはどうしても手際よくうまくできないのです

折角束ねるところまできても、もたもたして落としてしまい、束をバラしてしまう事も再々でした

こうした失敗を繰り返しながら少しずつ上手くなってゆき、仕舞い頃には叔父さん叔母さんに褒めてもらえるようにまで上達していきました

刈り取ってできた束はお袋を除いた3人で [おいこ] で背負って「新出屋」の隣に拵えた 櫨 (ハゼ) まで運ぶのです

「新出屋」 の脇の田んぼには今日の麦刈りに備えて叔父さんと叔母さんが造っておいた櫨の上に叔父さんがのぼり、ボクが鈎のついた3mくらいの棒の先に麦束を突き刺しては下から叔父さんの手元に差し出すのです

すると叔父さんが束を受け取って1対2位に分割して櫨に架けていくのです

だんだんと櫨は麦束の黄色い筵に広がっていくのですがその頃には日はとっぷりと暮れて星空になっているのです

こうして数日天日で乾燥してから足踏み脱穀機で籾を落として、農協に持参して出荷したり、自前用に製粉してもらったりして1年の収穫が終わるのです

当時の井原には耕耘機などの機械力はどこの農家にもなく、労働力としては 「だや」 で飼育している牛に鋤を牽かせて田圃を耕すのが精一杯で、その他は何もかも元気な人間の労働力のみに頼っての時代でした

その頃は叔母さんとお袋は家に帰り夕食の支度にとりかかろのです

すっかり太陽も沈み暗くなってから叔父さんより一足先にボクも家に帰り、水汲みから始めて風呂の支度にかかるのです
勿論、焚き口から薪を投げ入れて火を付け風呂を上手く沸かすまでにはお袋が後ろにきて手助けしてくれるのです

叔父さんは暗闇の中の月明かりを頼りに周りの枯れ草を燃したり、田圃の後かたづけを済ませ、そしてすぐ近くの土手から草を一抱え刈り取って持ち帰り、それらを混ぜて馬草を造り飼い牛の夕食の準備をするのです

叔父さんはそれからまだ今日使った鎌を研いだりして今日の仕事の後始末を全部やってしまい、明日の仕事の準備も済ませるとその日の仕事がやっと終わりになるのです

このようにして叔父さんの働き詰めの1日がやっと終わるのです

山鳥 そんな麦刈りの農作業の最中での出来事が今の私には懐かしく想い出されるのです

畝を刈りすすんでいた叔母さんの目の前に50cmくらいの円形に麦が踏み倒されたように空間ができて、そこに縞模様の山鳥 (雉のめす) がしっかりと伏せていたのです

あと数センチで鎌の先が鳥の身体に触れるくらいの処まで叔母さんは刈りすすんでいたのです

叔母さんの押し殺したように呼ぶ合図でみんなが周りに集まり用心深く観察してみると羽の下に雛がいるらしい気配です

親鳥は真剣な眼差しで丸い目をキョロキョロして不安げな仕草をしているのです

しばらく観ていると親鳥の羽の下から雛が顔を出したのが見えたのです

感じでは2〜3羽 のひな鳥が羽の下にいるようなのです

母鳥を驚かせないように気を遣いながらそのすぐ近くの麦だけを残して刈り入れを進めていきました

夕方の4時頃だったと思いますが中野村の中学校から帰る途中の敏治兄さんが上の道を通りかかったのです
  ( ☆ 敏兄さん : 「新出屋」 の養子、名前は 敏治、昭和2年12月1日生まれで 当時20歳前後だったと思われます )

その時は刈り取りも殆ど終わりかけていました

叔母さんが山鳥 が雛を抱いている一件を話すと敏兄さんは急いで家に帰り着替えをして、少し下の北村隆さん (敏兄さんと同級生) の家まで川魚獲りに使う投網を借りに走ったのです

近づいて見ると山鳥は丸い眼をくるくるしながら じいっと しています

敏兄さんが投網を借りて戻ってくると上手く打てるように両手で持って親鳥の近くまで気付かれないように用心して近づき

失敗をしないように注意深く投網を打ったのです
網はきれいに広がりほぼ山鳥を囲むようにうまく広がって落ちました

雛を抱えた山鳥は間違いなく網の中に捕まっているただろうと期待できるくらいに上手い網打ちに見えたのですが、網が舞い降りる瞬間に親鳥は全部のひなを両方の羽の中に抱え込んで畝のすき間をするりと く ぐり抜けてしまったのです

上の道路に向かって一目散に急勾配の斜面を駆け上って、[中村屋] の前から今度は [井原川] の方に駆け下りて 深い竹藪の中に消えてしまいました

敏兄さんをはじめみんなが手を止めて必死に逃げ去っていく山鳥親子を見て、子を思う母親の情の深さに感心しながらただ呆然と見送っていたのです



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 【 叔父さんと 入浴


私は小学校4年の夏休み (S20.7) から中学 1年の夏休み (S23.7) まで石州・井原の叔母の家 「新出屋」 に個人疎開しておりました

井原村の天蔵寺には、私が疎開した時には既に関西方面から親の元を離れて集団疎開してきた1クラスくらいの学童が本堂に寝泊まりして生活していたように記憶しています

彼らは村の小学校には編入学 しないで一緒に来た先生と勉強したり遊んで過ごしていたようで彼らと一緒に川遊びなどして遊んだ記憶はありません

その頃から夏場の農閑期には [日向谷] と云う山の奥にある谷間で灌木を切って炭焼きをする叔父さんについて山に行き、手伝いをするのが楽しみでした

暗くなり始める前に仕事場を片づけ、風呂の焚木や牛の餌にする山の草などを荷台一杯に積んで帰るのです

がたがた道を荷台いっぱいに積んだリヤカーを牽く叔父さんに加勢して暗くなった夜道を叔母さんが待つ [新出屋」 を目指して帰るのです

叔母さんは独り残って昼間は忙しく農作業をし、暗くなると家に帰って夕食の支度をしながら2人の帰りを待ってくれているのです

リヤカーのきしむ音が軒先に聞こえると奥から叔母さんが家事の手を止めて迎えに出てくれ、声をかけて癒してくれるのです

叔父さんが荷物を降ろし終わると、だやで腹を空かして待っている牛にやる飼料を草や藁を刻んで作るのです

その時の私の分担仕事は風呂を沸かすことでした

当時は浄水道は勿論のこと、簡易水道さえもなく納屋の前の道を挟んだ向かいに竹樋で引いた小川の水を貯めてある木箱からバケツにくんで風呂釜まで何回も往復するのです

ある程度貯まると乾燥した杉の葉を火種にして薪を燃し五右衛門風呂を沸かすのです

ほっぺたをいっぱいに膨らませて竹で拵えた長さ 1mくらいの鞴 (フイゴ) を思いっきり吹いて薪を威勢良く燃すのです
兎に角急いで風呂を沸かさなければならないのです

薪を燃し始めてからも足りない水を汲んできて風呂釜に注ぐのです

そして家族3人が途中で使う分の水を2つのバケツに満杯にして準備しておくのも私の仕事です

その頃になると叔父さんの牛の餌やりなどの仕事も片づきやっと風呂に入れる時間になるのです

  「伴や 風呂に入ろうか」

焚き口の前で夢中でフイゴを吹いている私に向かって だや から出てきた叔父さんが声をかけてくれるのです

  「まだ ぬるいよ」

  「ええから 伴 いっしょに入ろう  はようぬいでこい」

と続けて誘ってくれるのです

風呂たきをを止めて急いで母屋にかえり今日の仕事で汚れた着物を脱ぎ捨てて真っ裸になって風呂に走るのです

  「叔母さん  叔父さんと先に風呂に入るよ」

と叫んで小走りに風呂に行くと叔父さんはもう先に入ってることが多いのです

時には入ってる筈の叔父さんの姿が見えないことがあるのです

そんな時、叔父さんは先に風呂に入って、その上に風呂の蓋を載せて湯気が抜けて冷めないように叔父さんらしい工夫をしているのです

  「伴も 早う入れや」

と蓋の下から声がするのです

風呂蓋の半分をはぐって 叔父さんの隣に滑り込むと子供の私でも湯面が数センチ上がり蓋とのすき間が僅かしかなくなってしまうのです

叔父さんが私を抱きこんで顔を上に向けて蓋とのわずかなすき間で呼吸をするのです

五右衛門風呂だから敷き板の下は燻りながらも薪が燃えていて次第に風呂の湯も温まってきます

  「キモチええなー 気持ちええなー」

と叔父さんは小学生の私と同じレベルになって、せますぎる空間の中で今日の山での疲れを早く癒すように話しかけて呉れるのです

そのように何かにつけて叔父さんは私の気持ちを何時も和ませるように気を遣って接して下さり、お陰で空襲の危険を避けるために行った井原への疎開生活が戦争が終わった後もそのまま3年間滞在し続けられたのです

この歳になって想えば実の両親以上に叔父さん叔母さんに対して深いご恩を感じるのです

叔父さんたちには実の子が一人も出来ず、私より7歳歳上の敏治兄さんが生後間もなく貰い子され入籍していたのです。

その敏治兄さんが川本の農林学校に入ってる間に私が戦争疎開し、2週間後に終戦になった後もそのまま3年間疎開生活をつづけさせて貰ったのです

そして昭和23年の夏、私が宇部に帰った後には約150m位離れた処に両親を早く亡くされた天谷さんと云う男子3兄弟がおられ、その真ん中で私より1年下の浩君をまた我が子同然に育て、一人前に成長するまで世話をされたのです

これまで3回の四国歩きでいつも叔父さん叔母さんの事が想い出され、そのご恩が偲ばれるのです

叔父さん、叔母さん 本当にありがとうございました

どうか安らかに眠って下さい  そして私の想い出の中にいつも出てきてお話をさせてください


お世話になったその叔父さんは
  昭和50年(1975) 2月 14日 (金曜日)
永眠されました

叔父さん  沢山お世話になりました
生きてる限り一刻も叔父さんから頂いたご恩を忘れることはありません
本当にありがとうございました
どうか安らかにお眠り下さい
 『南無阿弥陀仏』




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 【 養蚕の手伝い


私が疎開していた昭和20年から23年頃には井原村では多くの農家で養蚕が盛んに営まれておりました
叔母さんの家でも金銭収入を得る手段の一つとして 米作、麦作の副業として祖父母の時代から否そのまた昔から盛んに行われていたようで、
家の前の道を上った畑には桑畑が広がっていました  秋には紫色に熟した桑の実をみつけて食べた記憶が懐かしいです

当時の叔母の家では金銭収入の手段としては
 ・秋に米を出荷する
 ・春に麦を出荷する
 ・仔牛を育て競り市にだして売却する :売価は育ち状態で大きく差異がでる
 ・蚕を飼育して繭(マユ)を出荷する
 ・三つ叉楮(コウゾ)を栽培して和紙の原材料として出荷する :大釜で蒸し樹皮を剥いて晒し白い繊維質にして出荷する
 ・コルク栓の原材料になるコルク樫の樹皮を剥いて出荷する
 ・炭焼きをして木炭を出荷する
などでした

当時の井原では、農家の殆どがこのように限られたほんの僅かな現金収入でやり繰りしてその中から電気代 (電気は各家庭に通じていました) や 脱穀機、そして鍬 (クワ) や稲刈り鎌、牛に牽かせる鋤 (スキ) などの農器具、僅かに使う化学肥料などの購入 (多くは人糞、家畜糞、堆肥を利用)、そして先祖の供養などの仏事、子供の教育費など必須の出費がありますのでやりくりが大変だったと思います   大概の生活は自給自足で賄っておりました

日々の生活では現金支出を最小限にするために主食には粟ご飯(アワ)、麦ご飯、芋がゆ、粟餅、蒸し芋、焼き芋、トウモロコシ などを食べていました
生産した米や麦のうち出荷できる良品は一粒も残さず出荷して現金に替えるのです

だから当時の農家の人は残り物、他人に出せないもの、お金にならないものを食べて自分の明日のエネルギーとし、家畜の飼料はあぜ道から刈り取ってきた草や藁くず、そして稗(ヒエ)や粃(シイラ)などを煮込んだりして食べさせておりました

鶏は卵を産ませるために、兎はたまに食用にするために縁側の下や家の隅で飼育していましたがそれらの飼育はお金のかからない手段で子供の役目でした


養蚕から話がそれていましたが再度話を戻して蚕の飼育などについての想い出を記述します

蚕は卵から孵化させていた記憶はなく 2mm 位の小さな小虫の時にどこかから叔母の家に届いていたように思います

養蚕の場所は母屋の隣の納屋の2階に高さ 2m 位の棚を組みたてそれを 10段 くらいに仕切りその棚に竹で編んだ板にむしろを敷いて蚕を飼育していました

最初のうちはむしろの上に散らばった小虫の上に若い桑の葉をキャベツのみじん切りくらいに刻んだ葉を振りかけてやると一斉に這い上ってきて旺盛に食べ始めるのです

まだこの頃は静かに音もなく食べていますが太さが 1cm 位に 長さが 6〜7cm にも成長してくると大きな厚い桑の葉でも 「サクサク」 と大きな音を立てて食べて行き見る間に筋だけを残してみな食べつくしてしまうこらい旺盛な食欲になります

定かではありませんが1日に 4〜5 回は桑の葉を与えていたように記憶しています
必要なその分を毎回 50×70cm 位の竹で編んだ円筒形の籠を背負って桑畑まで行き新鮮な桑の葉を採取してきて与えていました

だから畑には農薬は一切使用できません
そんな訳で叔母さんは養蚕を始めると繭を造り始めるまで家を留守にすることはできないのです

桑の葉の採取には小さな刃物を右手の人差し指に差し込んで葉の柄から切り取っていました
この工具も昔の人の知恵から生まれた工具で便利に使っていました

蚕が成長して成虫になり桑の葉を食べなくなる頃には虫の身体の色がだんだん真っ白から透明な色に変化していきます
これを観て蚕が繭(マユ)を造り始めるのが間近いことが判ります

その頃になると全く食べなくなり当然糞もしなくなり繭造りのためのねぐらの支度をしてやらなければなりません

繭造りのためのねぐらは一辺が 5cm 位の藁で編み上げられた三角形のトラス構造のジャバラ状の物を広げて蚕の上に置いてやるのです
蚕は待ってましたとばかりに一斉のその隙間に入り込み繭造りの準備に入ります
その時 2匹の蚕が接近しすぎて繭を造り始めると二子繭になってしまい出荷できる絹糸に仕上げることができないのです
そんな気配りをしていても知らぬ間に二子繭ができてしまうのです
二子繭は吐き出した2本の糸が繭の中で交錯してしまい素直に1本の絹糸に引き出せないので布団や座布団、丹前など綿入りの縫い物の滑り止めに使う真綿と呼んで転用しこれもまた重宝しておりました

晩秋になると濃い紫色に熟した美味しい桑の実をつまんで食べるのが疎開していた頃の楽しみでした

桑の木の高さは人の背丈くらいで根元の大きさが 20cm 位の木株から伸びたまっすぐな枝が 1m 四方に広がりそれに桑の葉を付けるのです
桑の木は隣の木と枝先が接しない程度に 2m 間隔くらいに植えられておりました
春になると新しい元気な新芽が吹いてくるように雪の降る前に根元から上手に剪定され切り取った枝は纏めて畑の隅に置いて乾燥させ持ち帰って風呂の焚きつけ(燃料)にしておりました   叔父さんが主にこの役目をしておられました

それから20年以上経った昭和47年に三菱重工にF4戦闘機の技術支援で来所した米国マクダネル社(現在のボーイング社)のパイロット Mr.McIntere 氏夫妻が日本文化の一つ養蚕の様子を見学したいと申し出られたので小牧の北の大口町で1軒の農家が養蚕を続けていることを聞きつけ彼らを案内して喜ばれたことがあります
そこで見学させてもらったときの様子は疎開していた時に叔母さんがやっていた戦中戦後の昔のやり方と殆んど変わりないやり方だったことにビックリしたことを彼らにも説明したことを想い出します


お世話になったその叔母さんは
  平成3年(1991) 5月 19日 (日曜日)
安らかに永眠されました

叔母さん  沢山お世話になりました
生きてる限り一刻も叔母さんから頂いたご恩を忘れることは決してありません
本当にありがとうございました
どうか安らかにお眠り下さい
 『南無阿弥陀仏』




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  【 叔母さんからのお返し


私・爺は終戦後丸3年間、石州・井原の叔父・叔母 の元に疎開しておりました

いま、当時を振り返ると恥ずかしくまた申し訳ないくらい我が儘に振る舞い、お二人に随分な迷惑をかけておりました

叔父さん叔母さんには実子ができなかったのですが、当時 「新出屋」 には私より7歳年上の 敏治兄さん が親戚筋からの貰い子として実子以上の愛情の中で育てられておりました

そこに突然疎開して飛び込んできた私 (叔母の姉である私の母の子供、即ち甥になる) の我が儘を見過ごしながら学校へ通わせ、分け隔てのない愛情で空襲の危険が無くなった戦後の3年間も育てて下さったのです

結婚してから叔父さん叔母さんにお世話になったことを、事ある毎に妻にも話し、叔父さんが亡くなられた昭和50年過ぎから夏のお中元と年末のお歳暮として母に送金する時 (結婚してからは家内の発案で夏と暮のボーナス時には5〜10万円を死去まで仕送り) に合わせて叔母さんにも大きな金額ではなかったが少しでも喜んでもらえればと送金を始めたのです

私が疎開していた時代には 「新出屋」 の現金収入は秋に収穫した米を農協に納めて貰う代金と、農作業の労働力として飼育している雌牛が産んだべこ(仔牛)を秋の競り市に出して少しでも高く売れた代金だけでした

だから作業着1枚を買うにもなけなしの僅かな所持金の中から現金で支払わなければならないのです
それを間近に見ていたので、私が送る僅かな金銭でも喜んでくれるのが目に見えていたからです

そうして送った金額の半分は必ずと云っていいほど
  「克っちゃんと祐子ちゃんにババからと云ってあげてくれ」
と送り返してこられるのです

  「折角送ったのだから気遣いしないで叔母さんの好きな饅頭でも買って食べて下さい」
と云っても聞き入れてくれないのです
叔母さんはそんな人だったのです

そして年老いた叔母が手塩をかけて作った米や野菜を古いダンボール箱に詰めて藁縄で荷造りして送ってくれるのです

その中に今も懐かしく想い出すのは太さが5cmはあるが長さは40cm くらいしかない短い牛蒡が一緒に梱包されて送られるのです
牛蒡の肌は縦に大きな割れ目があって見るからに筋張って堅そうなのですが、それが見た目と大違いで 食卓に出されると柔らかく香りのよい美味しい牛蒡だったのです
懐かしく想い出すだけで今は入手することも食べることも不可能です
井原に疎開していた頃には食べた記憶がないので多分それから後になって栽培されるようになったのだろうと思います

スーパーの野菜売り場で細く長い牛蒡を見るとあの太くて短いが柔らかく美味しい牛蒡が想い出され、叔母さんの好意を余計にうれしくなります

叔父さんは昭和49年2月に、叔母さんは平成3年5月に亡くなり、お二人にお世話になったのは今は遠い昔の事になってしまいました



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  【 孫たちをみて想うこと
  (H19.02.10)
  「兄弟とはありがたいものなんだ」

私には今、4人の孫がおります

昔風に云えば内孫、外孫がそれぞれ2人ずつで、皆男の子です

親ばかならならぬ爺ばか丸出しの表現をすれば、貴重なくらい心身共に健全な生育をしており 将来に夢いっぱいの希望を抱く事ができます

彼らは12歳と10歳の2.2歳差の兄弟、そして4歳と3歳の1.7歳差の兄弟です

彼ら兄弟は遊びなどを通して道具の取り合いや勝ち負けの主張などで何時も喧嘩を始めるのです

だから一緒に爺の家に行ってはいけないと母親にも云われたりするのです

上の子が独りで爺の家に来ていて1泊しての次の朝の帰りがちょっと遅くなると遊び相手、喧嘩相手が欲しくなるのでしょう 9時過ぎになると弟が決まったように電話を架けてきて

 「お兄ちゃん 何時帰って来るの」

と兄を電話口に呼びだして帰宅を催促するのです

一緒にいるといつの間にか取っ組み合いの喧嘩を始めてしまうことが多いのですが、独りの時には決して相手の悪口を言ったりしないのです

こちらがちょっとイジワルして相手の悪口話に誘い水を出してもむきになって反抗し、決して誘い話しに乗ってこないのです

兄弟としての成長の過程で培われた深い心のつながりが彼ら兄弟の間には厳として存在しているのです


4歳 と 3歳 の兄弟は いま兄が昨年(平成18年)4月から富山市内の幼稚園の [年少組] に入園し、今年(平成19年)の4月から年中組に進級する予定です

幼稚園に行って兄が不在の間が弟には長すぎてその時間で待ちきれないのです

帰って来るなり2人の活動は活発になり、兄貴がすることを弟が真似したり、幼稚園で習ってきたことを楽しそうに逐一弟に話して聞かせて教えてやってるそうです

そうしながら楽しく遊んで居るうちに いつの間にか取っ組み合いの喧嘩にも発展してしまうのです

そして自己主張しながら またひょっとした事でいつの間にか仲直りしているのです

母親が幼稚園に頼んで弟を3ヶ月早く入園させてもらう事ができたそうです

今年(平成19年)の1月から幼稚園の迎えのバスに一緒に乗り込んで出発し、1年上級生の兄と机を並べてクラスのみんなと年少組ならぬ [年少々組幼稚園]の生活を送っているそうです

こうして彼ら2人には一生忘れることのない貴重な想い出が今日も毎日、刻々と造られているのです


自分の過去をいくら振り返ってみてもこんな懐かしい想い出を描き出すことができないのが残念です

自分にはそのような過去が存在していなかったからです

記憶に残るようになってからは両親と3人で空襲の中を生き延びてきて、終戦2週間前の昭和20年7月31日、小学校4年の夏休みに叔父さん叔母さんのいる島根県の井原村に空襲疎開し

そのまま中学1年の夏休みまで丸3年間も度々の両親からの帰郷の督促や母親の迎えにも逆らって井原に留まり続けて山村の生活を続けたのです

井原の叔父さん、叔母さんの優しさが子供ごころを和らげ、即座に帰郷に結びつけなかった事も理由の一つですがその頃両親と3人で空襲の中を過ごした郷里宇部には一回り12歳年上の兄と更に3歳上の2人の兄が戦地から引き揚げてきていたのです

疎開の日まで両親と3人で過ごした記憶の残る宇部の実家が日ごとに遠い場所に離れて行き、なんとなく疎遠な存在になって行ったような気がするのです

ただ、血筋としては兄弟だから、これまで余り疑問にも思うことなく弟として2人の兄たちに接してきたと云うか、生きてきたのだと 彼ら4人の孫たちを見ていて気付いたのです


彼らのように身も心も許し合ってする時々のもつれあっての喧嘩を見ていると虎の子や子犬などの小動物が母親の目の前で咬み合う仕草でする微笑ましい情景が連想されます

こんな関係で育って行く彼ら2組の兄弟の姿が本来の兄弟のあるべき姿なのだろうと自分には羨ましくてうらやましくてならないのです

孫たちよ
どうかこのまま健やかに育ち、兄弟として、そして従兄弟として2人が、そして4人が共に切磋琢磨し少しでも社会に役立ち貢献できる人間に成長して欲しいと願って止みません



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  【 愛 社 精 神
 (H20.12.25)
平成20年12月12日に名航に在籍した元自衛官の集い (顧問、嘱託等でオールドウイング会と呼称) の忘年会があり、出席してきました。

その席で現在、南工場で嘱託として働いている後輩の1人が挨拶で
 「最近 私は 三菱名航が本当に嫌になりました。」
と発言したのです。  話しの前後は聞きのがしましたがこの言葉には自分の耳を疑いました。

自衛隊を定年退職して三菱に再就職し、現在お世話になっている会社に向かって後輩の1人からの発言だったのです。

これには驚きました。
「こいつはなんてことを言うんだ。」

私は予てより [愛社精神] について一文を書き始め、推敲を重ねているうちに書き続ける次の文句に行き詰まり、また続けて書こうと云う意気込みも揺らいできてそのまま放置していたのでした。

これを聞いて帰ったら思い切ってもう一度続きを書きたいという気持ちになったのです。

いろいろ想いを巡らし、やっと昨日、下記のような拙文を書き終えることができました。

然し、このまま会社に向かって発表することには躊躇しております。 

許されるならば先輩のみな様方に事前にご笑覧いただき、忌憚のないご意見・ご叱責を頂けたらと思っております。 
関係する他の方にも見ていただき適切なご忠言、ご所見を頂くことができましたらこの上ない幸いです。



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  【 愛される名航に還って欲しい
  (H20.12.27)

高校野球の放送を聴いて故郷を懐かしみ、オリンピックで揚がる日の丸を観て感動しない日本人はいないでしょう。

三菱名航出身のOBは新聞紙上に [MRJ] や [H2B] の記事が載ると関心をもって真っ先に目を通します。
そして将来の大成を願う気持ちは愛しい我が子を思う気持ちと変わらないのです。
先の [F-2事故] (H19,10,31)を知った時は胸を痛め、計り知れない苦しみを感じました。 
負傷したパイロットの回復はどうだろうか、混乱した職場で後輩たちは耐えて頑張っているだろうか、自分達OBに何かできることはないだろうか、良いアドバイスや手助けはないだろうか。 などいろいろと心配をします。

私は1969年、33歳で自衛隊(3等空佐)から名航にテストパイロットとして割愛入社し、
以来 丸30年 国のため、会社のため、そして家族のために働き、それなりに貢献し、成果を揚げて63歳で退職できたものと確信しております。 
その間充分な給与をいただき、そのお陰で家族を養い、2人の子供を養育し、家も建てることができました。 
そして退職した後も名航に対して感謝の気持ちをもって健康の維持に努め、
車はギャラン、エアコンはビーバー、家電は三菱電機、ビールはキリンを合言葉に旧三菱コンチェルン製品の愛用を決めこみ、
自衛隊出身であると同時に三菱出身者であることを何時も誇りにして、少しでも両者に恩返しと貢献ができればと
今も家族に話し伝え、老後の日々を過ごしております。

最近、飛行管理課OB会の会長に就任し、その行事として世話になった故郷の小牧南工場の見学を企画し、事前にお願い電話をしてみました。 
処が返ってきた回答は、

 『 工場見学は特別な方や団体(議員や子供会など)以外は現在全てお断わりしております。
  OB会も例外ではありません。 資料館だけの見学なら可能ですが。』

と予想もしてないそっけない返事だったのです。 工場見学の後で懐かしいあの美味しかった工場食のカレーうどんを食べさせて貰いたいと自分なりの腹案をもって臨んだのですが、残念ながら最初の入り口はぴたりと閉ざされていたのです。 
永い間、訪問の機会がなかったOBにとっては様変わりしたであろう今の小牧南工場を後輩の皆さんの案内で見学できることはどんなに大きな喜びだったかと残念でなりません。 
結局希望はかなわず、21年度のOB会は20年12月11日に名古屋市内での観劇と懇親会で終わってしまったのです。

私たち名航OBは誰も

 三菱名航が大好きなのです。  いつまでも大好きのままでいたいのです。
 三菱名航を愛したいのです。  いつまでも愛し続けていたいのです。
 私たちOBは名航に対していつまでもこのような気持ちを持ち続けていたいのです。

私が入社した40年前にはスリーダイヤの社員バッチを着用していなければ工場の中に入門させてもらえませんでした。 
当時金バッチを付けた人に出合うと赤バッチの自分にはすごく羨ましい気持ちになったのを鮮明に憶えています。
然し昭和60年頃だったと記憶しますが何故か三菱バッチの佩用が禁止され、今日に至っております。
先日、電気自動車 [ミツビシ i-MiEV] のTVCMを観ていると開発責任者と思われる方の襟には懐かしいあの金バッチがついていたのです。 
何故、重工、名航では社員バッチの佩用が禁止されたままなのでしょうか。
自分が三菱社員である事をいつも自覚していることは大切なことであり、この気持ちが愛社精神の高揚にもつながり、
断線事件のような不祥事の防止にもつながると思います。
自分も社員の一人として社業の遂行に少しでも貢献したいと云う気持ちにしてくれるのではないでしょうか。 
今も佩用の禁止を続けなければならないほどの不利な点を見いだすことは私にはできません。

昭和40年頃、F-104の領収試験飛行で南工場を訪問していた頃、領収官室の正面に2枚の額が掲示してありました。 
それは三菱重工の「三綱領」と「社是」でした。  即ち、

 [三綱領] : 「 所期奉公、 処事光明、 立業貿易 」

 [社 是]  : 「 顧客第一の信念に徹し、社業を通じて社会の進歩に貢献する
           誠実を旨とし、和を重んじて公私の別を明らかにする
           世界的視野に立ち、経営の革新と技術の開発に努める


の二つの言葉が額入りで掲げられておりました。
勿論、当時の各部課長室や会議室には同じように2枚の額が正面中央に掲示してありました。 
しかしいつ頃だったか取り外されてしまい、今も部屋にはその影さえなく現在の社員の多くは知らない過去の事実になってしまったのです。
自衛隊員だった当時の私には 「さすがは天下の三菱だ」 と関心し、自分も一段と気持ちを引き締めて領収飛行に飛び上がった事を憶えております。

「三綱領」は四代社長の岩崎小彌太氏が創業者岩崎弥太郎氏の遺訓を酌んで制定され、
後者は後になってこの綱領の主旨に沿って新しい文言として定めら、社員が精神的支柱となってきたのです。

今の名航にはこの様な精神的支柱がないがしろにされているのではないでしょうか。
それとも今風には不要な要素なのでしょうか。 今の若い中心管理者の中にはこのような過去さえも知らない方が多いのではないかと危惧します。 
三菱の歴史を軽視して社員の精神的な要が揺らぐ事はあってはならないと思います。 
社員一人ひとりが自己の職務に全力で精励する支柱となるものは現在でもやはりこの [三菱精神] を守ることで十分だと思います。 
世間の風潮に憚らず本来あるべき三菱名航の姿を現出して欲しいと願う者です。
いつの世になっても、どんなに落ちつきを失った世になっても人として生きてゆく以上、人間には精神的支柱が絶対に必要だと思います。
航空機整備作業で後を断たない不祥事の発生などは各社員の頭の片隅に開祖彌太郎の教えが一文字でも影として残っていたらこんな事は起こらずに済んだのではないでしょうか。

私自身は現在、[菱光会] の1メンバーに属しておりますが、残念ながら会員であることに特別なプライドが感じることができません。
こんなことで良いのでしょうか。 
重工退職者として誇れる会合・組織だったと思います。  自分は名航出身者だと誇りをもって云えるようになりたいのです。 
ましてや [菱光会] に所属していることは社員の中で誇りであり、喜びを感じるものであって欲しいと思います。 
[菱光会] 会員はそれぞれに「三綱領」、「社是」に沿って勤務・精励し、社業の発展にそれぞれの分野で貢献してきたと云う自負と誇りがあります。

現職の時には、OBの方に教えを請うて多くの伝統の技術を学び取りたいとお願いして工場に訪ねて来てもらったこともありました。 
課長に就いてからは教えを請うために先輩の自宅を訪ねたりもしました。 
然し今では工場に押しかけるデモ隊の輩と同様にOBの工場見学さえ許されないのでは悲しい限りです。
社業の発展のために日夜汗を流し、命をかけて頑張っておられる現役の方々もいずれはOBとなるのです。 
名航のOBは会社にとっては決して一般の人ではないのです。 
名航で共に働いた貴男たちの同志であり、先輩達なのです。 
ましてや選ばれて入会した [菱光会] の会員はある種の特別扱いがされても当然だと考えますがこの考えは間違っているでしょうか。
[菱光会] のバッチは年1回の総会に出席するときに佩用する以外に今は使う道がないのです。
名航・名誘の月刊誌が毎月郵送され、年1回の懇親会に出席して現所長のお話を直に聞けるだけの [菱光会] では魅力不足ではないでしょうか。 
所属することに責任と誇りが与えられ、巣立った名航への愛社精神が醸成され高揚されるものであって欲しいと思います。
[菱光会] 本部の方やお世話をして下さる役員の方々には感謝を申しあげますが、
工場見学さえも許可されない名航のシステムについては何らか別の途が残されているのではないかと思うのです。

ではどのような改革をして欲しいかを述べるところではありませんが、[菱光会] に対するお願いとして思いつくまま数項を記述してみます。
 (1)、会員バッチの有効な活用の途。
 (2)、写真付きの身分証の発行 ⇒社員に準じた入退門。
 (3)、従業員販売制度の適用 ⇒三菱製品の愛用、愛社精神の高揚、販売促進。
 (4)、航空事故、トラブル等の解決に各分野でのOBの経験、技能を活用。
 (5)、内示後の人事情報の開示。
 (6)、春祭り、夏祭りへの招待。
 (7)、名航、名誘の出勤日カレンダー配布 ⇒社員との一体感を醸成。
 (8)、社員との [E-mail] 交信の制約の緩和。
OBに対する処遇を少しでも温い方向へ改善する事は現職の社員にとっても将来に希望が生まれ、「三綱領」、「社是」に沿って業務精励の心(やる気)が向上すると思います。 従業員の方はその家族から
 『 お父さんが三菱の社員で良かった 』
と思ってもらえるような未来にして欲しいのです。 
OBの中には堂々とトヨタの車に乗り、パナソニックのエアコンを使って、かっての恩義を忘れ去っている人が多いのではないでしょうか。 
これらの改善によって三菱名航、ひいては三菱系列全体で得られる有形無形の利益は少なくないと信じます。

先般の田母神航空幕僚長の問題に対する政府の対応では、本筋を極めないまま彼を退職させることで全てを封じ込めて一切が片付けられてしまったことは極めて残念なことだと思います。 
彼が主張したかった本筋をもっと聞くべきではなかったでしょうか。 
『 好きでない国を守ることはできません 』
という一言だと理解しています。
私たちOBも巣立った古巣 三菱名航 を心底からから好きであり、熱愛し、心の支えとしているのです。 
明日に向かって一層の発展を遂げることを願い、自分の目で見守りたいのです。 
管理者各位の皆さんにこの願いが届くものでしたら、どうかわれわれOBを片想いにさせないで欲しいのです。  - 以上 -

 [追記] 飛行管理課OB会の小牧南工場見学は 田中元所長のお力添え により去る H22/03/17 無事実施できました(H22/04/25)


           
            [ 中日新聞の参考記事 (H21,11,24)]

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- 以上 -





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