(平成18年08月25日 公開)
(平成24年02月05日 更新・追記)


緒 言

両親に関して私の記憶に残っている最も古い出来事は 『紀元2,600年を祝う提灯行列』(昭和15年) です
お袋の背中に負われて肩越しに提灯を持って参加した時の情景がかすかに残っています
この提灯行列は国家行事でしたから、そこには親父も一緒にいたことだろうと回想しますが定かではありません
これは昭和15年(1940) の皇紀2600年を慶賀するため行事で、記録を調べると その年の 11月10日 に皇居前広場を始め全国各地で開かれたそうです
だとすると、私が 満5歳になる直前のことだったのです  参考に私の誕生日は昭和10年11月16日です

そして、親父についての最後の記憶は 昭和29年保安大學校1年の夏休みに初めて郷里の宇部市に帰って約1ヶ月間、お袋の手料理を肴にして一緒に食卓を囲み、親父の隣に坐って酒を飲んだ時のことです

その頃 (昭和29年) の日本はまだ食糧事情が悪く、大學では主食の米粒の代わりに米軍から払い下げられた援助物資 (当時ララ物資と呼ばれてたと記憶) のメリケン粉をこねて圧縮し米粒の形に整形した [人造米] と呼ばれる代用品が米粒と半々くらいに混ぜて炊かれたご飯でした
時にはご飯の食器 (当時はアルミ製の食器が使われていた) には玉子大の人造米の塊(味のないネチネチした固いダンゴです)の周りにご飯粒をまぶしたような格好で大きなのが1個だけ入っていると云うような最悪なこともありました
そんな時は腹を空かして帰ってきて食卓に着いても特に夏などは容易には喉を通らないのです  勿論当時はエアコンなとありません
お茶と味噌汁で流しこんでとにかく空腹を満たして体力を維持しておりました
でも戦中戦後の厳しい食料難の時代を経験した自分達には満腹になるまで食べさせてくれる保安大学校は有難い存在ではあったのです

小原台に帰るとまたあのメリケン粉の [人造米] が食卓にでてくると想像すると心の中で無性に学校に帰っていくのがいやで、夏休みの終わりが近づくのが無性に寂しかったことを記憶しています  でも今思えば、横須賀の街には空腹を我慢しながら路傍に彷徨う人も多かった時代ですから自分の学生生活は当時とすれば相当に恵まれていたのです
学校では衣食住が与えられているだけでなく学生手当として小遣いが 3,200円 が支給されていました  当時の大卒の初任給は1万円をきる 9,000円 それがしだったのです

そんな気持ちに心を曇らせながらも顔では 「がんばってきます」 と昭和29年8月28日の朝、無理にも笑顔を作って発つ自分を玄関で見送ってくれる両親に別れを言って出発した時が親父との最後の別れになったのです

2学期が始まって2週間が経った9月14日(火) の朝、いつもの起床点呼を終わり、久里浜の112小隊学生舎に帰ってくると拡声器で2階の指導官室に来るようにと名指しで呼び出されたのです

不吉な予感を抱きながらなんだろうと急いで階段を駆け上って当直指導官室に決められていた敬礼をして入室すると当直士官の横山1等陸士 (当時の陸軍大尉の呼称) から
1通の紙きれが電報だと知らされて手渡されました

  「 チチシス スグカエレ ハハ 」

のカナ文字が読みとれました  父が急死したことを知らせる母からの電報です
当時は家族の死去など緊急を報せる手段は電報だけで電話は使われていませんでした
この電報の報せで受けたショックは今でも忘れられずに残っております

  見送ってくれたときはあんなに元気だった親爺だったのに
  夏休みの間中連日のように一緒に心行くまで飲みかわした親爺だったのに
  卒業した後の将校の制服姿を見たいとあんなに期待していた親爺なのに
どうしてもこの電報の文字が現実として理解されてこないのです
特急列車に乗りこみ一昼夜をかけてわが家に着いてみると大阪の義兄や井原の叔母が既に着いて私の帰着を待っていました
そしてその席で父が自死だった事を義兄から知らせれたのです


大食堂で一緒に朝食を食べながら小隊の先輩(1期生)や、同期生に事の次第を告げ、帰省の仕度を済ませて横須賀線を経由して東海道本線の大船駅に向かいました
当時は特急に乗れても久里浜から宇部の自宅までほぼ1昼夜はかかったように記憶しています


兎に角、父は他に例をみない厳格すぎる親父でした  子供の頃、板張りの廊下に正座させられて真夜中を過ごしたことも一度ならずありました
そんな親父が他界した時、私はもう大学生でしたから親をなくしても決して早すぎる歳ではないのですが、今日限り自分にはこの世に親爺と云う存在が居なくなったと云うことは人性最大の事件であったことは事実です

自分の脳裡に親父としての記憶が残っているのは5歳の頃が最初でそれから上京するまでの約13年間は、大東亜戦争中の米軍の空襲に堪えて過ごしたこと、石州・井原への疎開で叔父さん叔母さんに可愛がられ育ててもらった3年間、そして再び宇部に帰ってきての神原中学、宇部高校を卒業し、そして大學受験を経て保安大学校1年の1学期までの間でした

平成12年春の 『初めてのお遍路』、そして平成14年春に歩いた2度目の 『出会いのお遍路』、そして平成18年の 『108寺のお遍路』 の途中で今は亡き 親父 と お袋、そして叔父さん、叔母さん と対話をしながら歩いていると空想の世界に入ってしまい、つぶれた肉刺の痛さも忘れて歩くことができたのです

日々薄らぎ、定かでなくなる 親父やお袋、そして叔父さん、叔母さんとの想い出を [自分史] の大切な1ページとして1日も早くできるだけ正確に書き留めておくことが急務だと思い、お遍路の途中で思い付くことを書き留めておいた メモ を出してきて纏め始めました   想い出すのは何とも厳格な父だったことです  何度、板の廊下に正座させられたことだろうか

やっと 『百八寺のお遍路』 の整理も一段落したので、このメモを手元に思い出せるまま、親爺が逝った年令をとっくに過ぎて少しずつ老いゆく自分を振り返りながら想い出せるままにひとつずつ書き記していきます

今、この世の中で一番崇拝できる人、尊敬できる人は誰かと聞かれたら
 『親父の 日高竹次 です』
と私は迷わず答えます  そしてそれが自分の一生の誇りでもあります

この世の中で一番お世話になり、感謝する人は誰かと聞かれたら、勿論両親を連想します
でも、やはり私は
 『それは石洲・井原の叔父さん 柘植五市さん と 叔母の柘植タケさん  です』
と答えます

私が今こうして70歳を過ぎても人並み以上に健康であり、健全な精神で他人に伍して活きていけるのはこの4人のお陰です
本当にありがとうございました

既に過去の人となった4人の方に深い感謝の気持ちを込めて 『親父の想い出』 と題してこの1ページを記述します (H18.08)



こうして元気に70歳の古希を迎え、そして四国八十八ヶ所を元気に3回も通し歩きで巡ることができました
このように人並み以上の丈夫さでこれまで生きてこれたのは他ならぬこの自分を産んでくれた親父の竹次とお袋のマツであり、
そして自分の身体のなかに二人が残してくれた遺伝子・DNA、生来の[根性] と [負けず嫌い] が今の自分を四方から支えてくれているのです
そして [日本の田舎] に抱く私の尽きない愛着の気持ちは 井原村で過ごした3年間の疎開生活の中で育んでくれた
叔父の五市さんと叔母のタケさんのお陰であることは疑う余地がありません
心から感謝の気持ちを込めて回想の一面一文で書き記していきたいと思います
 (H19.02)








 [ このページの訪問について ]    


本ページは 平成18年春の 歩き遍路 の途中

50年前に他界した親父との瞑想対話の中で親父と約束したことを

  『 親父の想い出 』             

として思い付くまま短文にして残したものを一ページに纏めました。

これ以降の記述は機微詳細な部位にわたりますので

あまり他人さまに知られたくない内容も含んでいます

従って、当分の間身内の一部の者のみの訪問に制限しており

他のページと区別して [隠しページ] にしました。


- 以上 -        











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